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ストレスで自らを磨く「流れる時間をゆるやかに掴む」生き方

ある日突然「命がけで病と闘う」ことを強いられる経験。

多くの人が通り過ぎてきた道ではないだろうが、そのような経験した人は少なからずいるはずだ。

そして、そういう人は、この自粛生活のストレスに「既視感」を覚えるのではないだろうか?


死を覚悟した闘病の経験から得たもの

ある日突然、自分の命と引き換えに「人生の全て」を棄てて臨むことを強いられる。

全てを棄てるといっても、ゴミのように捨てるということを意味するのではない。仮に失ったとしても仕方ないと覚悟をして視野の外に置くという意味だ。

生きるか死ぬかをかけた戦いには、そういう覚悟が求められる。


感じるストレスは自分で気づくしかない

今、自粛生活でストレスを抱えている人が多い。

その話を見聞きして思うコトだが、一律にストレスとは呼ぶことができたとしても、同じストレスではないようだ。

実際は、さまざまなストレッサー(=ストレスの原因となること)があり、抱えるストレスの種類も幅が広いと感じる。

それを「同じストレス」として、型通りのストレス発散を推奨しても無理があるだろう。

自分のストレスは自分にしかわからないもの。そして、その乗り越え方も自分自身しかわかりようがない。経験則ではあるが、そう確信している。

どのようなストレスを自分が抱えているのか。

それに気づくためには、心療内科で診てもらうとか、親しい人に話を聴いてもらうとか、そういうことは有効ではあるだろうが。

今は、それを気軽に求められない時期でもある。


「助ける側」もストレスに曝されている

今は、全世界レベルで人々が未体験のストレスに曝されている。助ける側にまわる人にもストレスがかかっており、全力で助けることが難しい。

心療内科の医師も、親しい関係の人も、同様に緊急事態宣言発令中下にいるのだ。

それを思うと、この状況に陥る前に、「命がけ」で困難を生きるストレス対処を経験してきた者は強い。

つまり、死を覚悟して病と闘った者は、過去の経験から、自分のストレス癖を知っているからだ。


屍を越えて生きる

私は、命をかけて全てを棄てる覚悟で戦った経験がある。

7ヶ月の積極的治療と7年ほどの経過観察通院とを乗り越えた。その時に経験した心の揺れを乗り越える方法が確実に今の自分を支えてくれている。

今の自分を支えるチカラとなるものは、自分がストレスと向き合ったという経験のみではない。

残念ながら、戦いの後、命を失った戦友への思いもある。

と同時に、私が受けた治療法の確立に貢献した「見ず知らずの命」にも支えられている。即ち、「同じ病を抱え、私に先立って治療を受けた方」への感謝の気持ちだ。

人ひとりとして見れば、人は1度死んだらそれで終わり。だが、人類という系譜の中では、人は何らかの形で他の命を繋ぐ存在でもある。

私は、治療法が見つかる前にお亡くなりなった方「命を与えてくれた屍」に感謝して、今を生きている。


流れる時間をゆるやかに掴む生き方

今は、全人類が命を危険に晒しながら「人生の全てを棄てる覚悟」で病と闘っているようなもの

自分の思うようにならないし、見通しもつかないし、仮に生き延びたとしても未来に希望など感じられない。そういう気持ちになるのは必然であろう。

けれども、この体験を乗り越えると、自分の内面が成長していくのは確かである。ただし、成長したことを実感するためには、今を生き延びるしかない。

苦しい状況では、とにかく淡々と進むこと。

一喜一憂しないこと。

時の流れをゆるやかに掴み、焦らず、未来が来ることを信じよう。

生き延びた後は、かつての自分とは比べ物にならないほど、内面に強いチカラがあることに気づけるはずだから。