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あるINFJの覚え書き:道徳的に考える「してはいけない事とはこの世に存在するか?」

自分は学齢期の子供に接する仕事に就いているため、彼らに「道徳的な判断」について納得させなければいけない時がある。例えば
「友達を叩いてはいけません。」
すると跳ねっ返りのあるスーパーボールみたいな子供が大声で言い返してくるのだ。
「なんでしちゃいけないの?!?」

表面的な解答はとても簡単だ。
「友達を叩いたら友達が悲しむからだよ。」
ただ彼らはこんな柔な回答を許さない。 
「悲しんだって良い、アイツのこと嫌いなんだもん」
「アイツが先に悪口を言ったんだもん」
私は更に説く。 
「それでも人叩いたら、周りの人は君を暴れん坊だって思うよ。怒ったら人を叩くような人間は、周りから嫌われるよ。」
彼はこう返す。
「次は誰にも見えないところで殴るもん。」

「してはいけないこと」に関して理由なく「してはいけないからしてはいけないんだ」と言い切れるような道徳的(?)人間には、このような問い自体無意味に感じられるだろう。だが今回は多様な子供たちに対する教育研究のために、この「なぜしちゃいけないのか」を様々な角度から考えていく。
 



①ギリシャの回答

「自分を傷つけてはいけない」「自分を大切にするべきだ」これらの判断は理由付けが必要ない、自明のことである。

「人を傷つけてはいけない」「人を助けるべきである」これらの判断には、回答が必要になる。

つまり「自分の利益になることをするべき、自分の不利益を避けるべき」は自明だ。
だが「他者の利益になることをするべき、他者の不利益を避けるべき」は「何でそんなことしなきゃいけないの?」という疑問を呼び起こし、回答を要求する。

プラトン、アリストテレスの回答は「幸福」であった。

プラトンは『国家』の中で「グラウコンという哲学者vsソクラテス」の対立を描いた。
ここでグラウコンは「正義とは望まれたものでなく、仕方なく設定された縛りだ」といった内容を述べる。

ギュゲスの指輪という有名な話がある。この指輪をはめると透明人間になりどんな悪事もバレずにおこなえるようになる。グラウコンはこの指輪をはめた人間はみな自分の利益を求め悪事を行うだろう、だから「道徳的に良い事」は「本人にとって良いこと(幸福)」ではない、とした。

結局「人を殴るべきでない」という道徳的判断(正義)は、人間たちが「人を殴っておきながら罰を受けない」という自分の利益と、「人に殴られたがその人に罰が下らない」という自分の不利益の間を妥協点として取って、法律という契約を結んだために生まれた、「不本意な縛り」であるということだ。

これに対してソクラテスは、「正義は幸福を実現するための手段ではない。正義にかなう生き方こそが幸福を実現する。」といった回答する。
つまり「人を殴るべきでない」といった道徳的判断を「利益と不利益の間の妥協点」として行う人は幸福ではない。「人を殴るべきでない」といった道徳的判断を「みずから行う」人が初めて真の幸福に辿り着くのだ、ということだ。
道徳的判断は、人の外側に生まれるのではなく内側に生まれるのだ。

プラトンの主張のポイントはそこで、魂の本性は「エロース(真実を愛し求める探究心)」なので、それによって知が獲得され、理性が獲得され、正義が実現する。エロースを自覚し従った先でみずから正義を実現させた人間こそが幸福だ。つまりプラトンの語る「正義」とは、心・魂の健康を含む。
ギュゲスの指輪をはめて暴れるような人間は、いつも自分の欲望に振り回される、魂が不健康な不幸な人、ということだ。

アリストテレスは人間の卓越した能力(アレテー)を「理性」とした。大工には建物を建てる能力がある。それを磨き、さらに頑丈な建物を建てることが、彼らにとっての幸福だ。
人間には、「理性」がある。それを磨き、観想的生活を送ることが、人間の幸福である。そして理性的行為とされる「勇気」などの倫理的器量は単に「習慣づけられる」ものだとした。

そして彼はここに「中庸」を付け加える。これは何事も「過多と不足の中間」に位置することが重要だという意味で、過度に勇気があっても、また勇気があまりに不足していてもいけないということだ。
この考え方はそのまま大きく「良い人間を目指し理性を磨く生き方」と「個人として享楽を味わう生き方」の間を取るのが良い、という解釈に繋げることができる。

ここまで来て分かることはつまり、プラトンもアリストテレスも「"道徳的判断が出来ること"は"幸福であること"の証だ。」という主張をしたということだ。彼らは人間の本性(エロースやアレテー)を紐解くことで道徳的な生き方こそが幸福であるのだと述べた。アリストテレスはそこに程度問題という観点を付け加えた。

この主張に対して考えられる問題提起は、「真の幸福」の曖昧さであろう。磨かれた理性が道徳的判断を導き出す生き方こそ真の幸福なのであれば、その他の幸福はまやかしなのか。
「美や真実の追求」や「理性を磨く」ことが人間の本性と言うが、どこからどこまでが「美」で「真実」で「理性」なのか。人間の死体に美や真実を見出し、人を理性的に殺す人間は、幸福なのか。結局幸福も美も真実も理性も正義も、社会に規定される、「外在する」ものなのではないか。

またギュゲスの指輪を付けても、「真の幸福を手に入れるために…」と考え悪事を働かない人もいるだろう。だがそういう人も結局は、「自分の利益(幸福)」を求めているだけだ。その点ではギュゲスの指輪をつけて悪事を働く人と何ら変わらないのではないだろうか。



子供との対話 ギリシャ編


「なんで人を殴ってはいけないの?」

「人を殴るなんて、自分が殴りたいから殴っただけだろう?そういう人は、自分のやりたいことをやってるだけ。本当の意味に幸せになれないんだよ。
本当に幸せになりたいなら、頭を働かせて、道徳的に物事を考えるんだ。人を殴るだなんて、道徳的じゃないよな。」

「僕はやりたいことをやれたら十分幸せだもん。それに僕は頭を働かせた結果、やっぱりアイツは殴られた方がいい人間だと思ったから殴ったんだ。」

☆おそらく社会契約説編へ続く


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