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これであってる・・・?

今回は、「自分の言動を正解にしていく」について書いてみたいと思います。


認められなければ生きていけない


これであってる?の確認



子どもの頃から、何をするにも逐一(ちくいち)

 私の言動はこれで良かった? これであってる?

と確認してばかりでした。


きっかけ


どうしてそんな風になったかといえば、単純なことで、母でした。

何もできない赤ん坊の頃から庇護を受けている訳ですから、

 母に逆らったら見捨てられる=生きていけない

と信じて生きてきたわけです。

母は、私の一挙手一投足にダメ出しをしてくる人でした。

母は小学生のころから家事一切を任されている一家の「母親」をしてきたようです。だから、母なりのやり方が強固に確立していて、それが一番のやり方と信じて、子である私に教えてくれていたのでしょう。


それに応えようとするうち、自分アイデアのことは何もできなくなりました。何をやっても母のやり方でやり直しをされ、おまけに小言ももらうの、ほとほとイヤになってしまったのです。

いつも「お母さんが望むやり方は何かな?」を考え、わからなければ指示が出るまで待っていました。自分からは何もやらなくなっていきました。


中高生くらいだったかのある時、母に、「なんであなたの口癖は ”怒る?” なのっ?」とイライラされたことがあります。

いや、それは本当に、何をやってもガミガミ言われることがイヤすぎて、防衛反応で出た言葉ってことでしょう? と、今なら言えるなぁ。。。(直接は言わないで、苦笑するだけかもしれませんが。)


小学校時代は「超」優等生


小学生時代は「超」優等生でした。

毎期必ず「班長」をやり、クラス内にいる複数の班長の長「班長の班長」も歴任しました。

高学年になれば委員会の委員長も。

先生の言うことには100%従い、先生の言うことをきかない生徒に注意するようなニンゲンでした。(いや、先生のロボットか。)

こうして書いているだけで、顔から火が出ますね。いやぁはーずかしー。


母から離れ社会に出ても・・・


学童期は先生、会社に勤めれば上司、そして世間が母の代わりになっていきました。

母や先生の頃はまだ基準は一人でしたが、会社に勤めればリーダー、課長、部長、その他の先輩方、いろいろな人の意見に全て従おうとして破綻していきました。

職場で涙が止まらなくなることもしばしば起こるほど、心のバランスを崩しました。

昨今の言葉で表現すれば

 【 他人軸で生きている 】

 【 (自分の人生の)操縦席に他人を座らせている 】

状態だったわけです。


見捨てられたら生きていけない


どうしてそうなっていったかを考えると、本当に小さいときの生存本能が強すぎたということですね。つまり

 母親に見捨てられたら生きていけない

をずっと持ち続けてきてしまったわけです。

わが母は「こうでなければいけない」をたくさんたくさん持っている人でした。

※そんな母のことは長い心の確執を経て、今は穏やかに観ることができています。母自身も世間的に良い母親でいなくてはいけない、という思い(こみ)に縛られて、ずいぶん窮屈に生きて来たと思います。

母の呪縛は私には強すぎたようで、学童期を過ぎ、中学、高校、大学生になっても、母がそばにいなくても、自分で勝手に母の代わりを立てては

 この人に見捨てられたら生きていけない

をやっていました。


呪縛からの解放


遂に「親離れ」


〇〇さんに見捨てられたら生きていけない

を手放す時が来ました。これがいわゆる「親離れ」かもしれません。きっかけは、繰り返し繰り返し自分に言い聞かせたことです。

 私は私のままでいい

 間違ってもいい、ダメでもいい

これを、繰り返し自分に言い聞かせました。

本来なら、これは幼少期に親からメッセージをもらうもので、あかの他人がそこまで言い続けてはくれないものだと思います。

が、それを言い続けてくれた人が現れたことで、徐々に、徐々に、今度は自分でそれを言えるようになってきました。

 罪悪感を持たなくていい

ことも学びました。

 どうやったって生きて行ける。失敗しても。

そう思えるまでは、本当に「こんな失敗をしたのだから〇ななければならない」位の事を何度も思ってきました。


かつては「言われたことはやったもん」マインド


人から非難されないように生きていたころは、言われたことをやるのが精いっぱいでした。

後ろ指をさされないよう、怒られないよう、ダメ出しされないよう

  必要最低限のことしかやらない

必要最低限やれば疲労困憊。気力が残っていません。

「やったんだから、もういいデショ」と、あとは時間つぶしをして過ごしてきました。


ゲームにはまる、SNSにはまる背景


携帯のゲームにハマったり、SNSを眺めて何時間も溶かしていたのは、

 「それをやっていても特に指摘されたり怒られたりすることがない」

からかもしれません。

でも、自分の人生という観点からみると、超絶「時間の無駄遣い」でしかありませんでした。

・・・と、今なら言えます。


自分の人生を生きる


師匠・メンターとのかかわり


自己成長のために、これまで何人もの師匠やメンターを得てきましたが、最初の頃は、またしても

 この人に見捨てられたら生きていけない

を発動していました。

【 師匠・メンターの教えを素直に行動する人は成長が早い 】

とよく言われますが、「言われたことだけやったから良いデショ」マインドでそれをやっても、意味はないのです。

 自分の人生をどうしたいのか、どう生きていくか

の意思を持って、自分の人生に責任をとるのは自分なのですから。


セキニンと言う言葉は重くて怖い?


最初の頃は「自分の人生の責任は自分でとれ」などと聞くだけで震えあがっていました。怖かったのです。

なんでかな?と思ったら、「見放された!」と響いていたからかも、と思い当たりました。

でも、本当のところ、人は千差万別の人生を歩み、それぞれの道の果てに死んでいくのです。そこまでずっと導いてくれる人も、伴走してくれる人もいないのです。

自分の人生を、自分がデザインして、思うように生きる

のは、怖いことではなく、ワクワク楽しいことなのです。


自分の道を正解にしていく


ここまできて、やっと自分のアイデアが浮かび、やる気が出てきました。

そうなったらもう、人生の時間の無駄遣いはしません。

たとえ誰かに見捨てられても生きていけます

自分が第一の味方だし、新しい自分には、その自分を応援してくれる新しい人が現れます。もし、それまでの自分を応援できないと離れて行く人がいたとしても。

だから、ダイジョウブなんです。

自分が行きたい道を行って、「これでいいんだ」と自分が正解にしていくのです。

途中の失敗は、成功へのステップなだけだから、失敗はあっても「間違い」はないんです。


私に関わる全ての人に元気と勇気を!
そしてその人の変化を有形無形で応援していきます!!!

失敗は終わりではなく成功のステップ。自分の言動に「間違っている」ことはないんです。安心して進みましょう!
ちか (2024.5.11)


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