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推し活の倫理学(1)

わたしは中学生の頃からひっそりと韓国系アイドルのオタクをしている。いわゆる、推し活である。

推し活をしていると、時折、わたしの倫理観が試されている、と思うことがある。
メンバーを指定できないサイン会の申込とか、金額に応じてもらえるお見送り会の抽選券とか。そういうものを目の前にしたとき、わたしはどうしたらよいのだろう、と途方に暮れてしまう。

推しを前にして、わたしはどのように倫理的であれるのだろうか。推し活をしながら、倫理的な選択・行動をすることのむずかしさに日々悩まされる。

「推し活の倫理学」とは

「推し活の倫理学」は、推し活のなかで自分の倫理観が揺るがされるその瞬間に、わたしが心のなかで葛藤していることや考えていることを言語化することで、推し活を哲学してみようという試みである。

対象がアイドル以外でも、なにかしら「推し活」をしている誰かがこれを読んで、わたしと一緒にうーんと首を捻ってくれたらとてもうれしいです。



「CDを積む」という行為について考える

最近、わたしの推しが新しくシングルを出した。今月から日本全国をめぐる(小規模ではあるが)ツアーも始まる。
シングル発売に際して、大量の特典付きCDの存在が明らかになったとき、わたしはひとりスマホを見つめ、これはわたしの倫理観が試されている、と思った。

お渡し会の権利がついたCD、サイン会の抽選券付きのCD、サイン入りチェキがランダム封入されているCDなど、中身は同じCDに対してさまざまな特典がつけられ、わたしはこれを買うのか買わないのかという選択を迫られる。

単純にお財布との相談という問題もあるのだけど、わたしはそれと同じくらいに「CDを積む*」という行為自体の問題についてどうしても考えてしまう。すなわち、CDを積むという行為は、どこまでが倫理的に許される行為なのか、ということである。

*CDを積むとは、特典を目的にCDを大量に購入することなどを指します


1. CDを積む行為は、格差社会の肯定なのか

CDを積むのはサイン会やお渡し会の当選確率を上げるためであり、確率論でいえば、わたしたちがわかりきっている一つの事実は「お金のある人が勝つ」ということである。

このとき、行われていることは出来レースなのに、わたしたちは誰もに平等にチャンスが与えられているように感じて、自分ももしかしたら当たるかもしれないという微かな希望を信じてCDを購入する。
確かに、購入すれば権利を得ることができるという以上、誰もにチャンス自体は平等に与えられている。しかし、当選確率が購入枚数に比例するということは(買えば買うほどに当選確率が上がる)チャンスは平等ではなく、お金のある人(あるいは推し活にお金をかけることができる人)に多く偏って付与されているものなのである。

これはまさに能力主義と同じ仕組み、格差社会そのものだとわたしは思う。
このような社会では、見かけ上は誰もに努力によって成功するチャンスが平等に与えられているようでありながら、実はその出発点は生まれる場所・性別・人種・家庭などによって大きな格差があり、チャンスは決して平等ではない。それなのに、努力という言葉によってこの格差は隠蔽され、結果の不平等は努力不足という自己責任論に還元されていく。

それでも、少ないチャンスでもできる限りCDを積んで、針の糸を通すようなその一瞬にかけると決めたとして、わたしのその行為はこのような格差社会を肯定することになってしまうのだろうか?

このような社会がおかしいと思いながら、それでもCDを積むという選択をしたとき、わたしはこの格差社会の存続を許し助長することになってしまうのだろうか?

この瞬間、わたしの倫理観が試されている、と思う。

2. CDを積む行為は、環境破壊を促進するか

会うことやサインを得ることを目的にしてCDを積む場合、その人はCD自体を購入するわけではなく、会うあるいはサインをしてもらう権利を購入していることになる。
買えば買うほど当選確率は上がるが、手元に増えていくCDはまったく同じものであり、たくさんあることによって価値が増えたりはしない。

普通に考えると、同じCDは2枚以上必要がない。保存用、観賞用、視聴用に分けている人もいるらしいが、普通に考えると同じCDは必要ない。なんなら、サブスクで音楽を聴くことができ、YouTubeにMVがあがるこの時代、CDそのものが不要だと考えることすらできる。
この状況で、大量のCDを製造し販売することはシンプルに考えて「無駄」なのではないだろうか、と思ってしまうことがある。無駄どころか、環境破壊を促進していたりしないのだろうかと心配になったりもする。

廃棄物処理の問題や気候変動などを踏まえ、大量生産大量消費が非難され始めているこの時代に、いるかいらないかで言われると明らかにいらないCDを、大量に製造・販売するということはなにを意味しているのだろう?

それでもわたしが、当たるかもわからない(というかほぼ当たらない)お渡し会のチケットのためにCDを積むという行為は、果たして倫理的に許されることなのだろうか?

やはりこの瞬間、わたしの倫理観が試されている、と思う。


おわりに

こんなことを考えるのはおかしいとわかっているけれど、どうしても頭から離れない。だから問題を自分から引き剥がし、哲学のテーブルに一度並べてみようとした。それが今回のこの試みである。

わたしの不完全な倫理観は揺らいで、結論が出ないままに同じものを買ってしまったり、逆に問題から目を背けるために買わないという選択をしてしまったりする
アイドルとして活動する推しのことは好きだし、会いたいとも思う。でも、それと同じくらい、わたしは自分の倫理や正義に適った行動がしたいとも思う。

だからこそ、毎日の生活のなかで「どうしたらいいのか」と途方に暮れてしまうような瞬間を忘れないように、その葛藤を少しでもここに押し留めて、一生懸命に考えてみたいのである。

それから、ここに書ききれなかった問題もいくつかある。特典を目当てにCDを積むとき、わたしたちはCDを目的としてではなく手段として買っているけれど、そこに倫理的な問題はないのだろうか、とか。
また、「CDを積む」という行為以外にも、わたしの倫理が揺るがされる瞬間は多くある。次回は、(いつになるかわからないけれど)「メンバーランダム」方式のサイン会・お渡し会・握手会に感じるモヤモヤを哲学してみたいと思う。

もし気になる人がいれば、また一緒に考えてくれるとうれしいです。


読書案内

推し活というより、「自分の日常における何気ない行動が誰か/何かを傷つけ破壊する可能性がある」ということについてもっと知ることができるものを何冊か選んでみました。
推し活の哲学や倫理学に近いような研究や文献については、いくつか見つけてはいるのですがまだほとんど手をつけられていないので、お手柔らかにお願いいたします。


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