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自分とはなにか(後編)

前編はこちら
(今回のカバー画像はSLの車窓から撮った鬼怒川温泉駅です)

「わたしのなかのわたし」は、一体どこまでがわたしなのか

前回は、「わたしを構成するなにか」を考えながら、自分という存在の曖昧さについて考えてみた。今回は、「わたしのなかのわたし」というテーマで、自分とはなにかについて考えてみたいと思う。

自分とはなにかということについて考えるとき、あるいは悩むとき、他者と比べるのと同じくらいに、過去の自分との一貫性のなさや理想の自分との距離の大きさという壁にぶつかることが多いような気がする。わたしのなかに何人もわたしがいて、どれが本当の自分なのかと悩んだり、自分というものをしっかりと持ちたいとか、自分を見失うとか、自分探しの旅とか、そういうことを考えたりする。

わたしに含まれている様々なわたしは、どこまでがわたしなのだろう。
今回は、そんなことをゆらゆらと考えて書いてみました。今回も一緒にゆらゆらしてくれる人がいたらとてもうれしいです。


1. 過去の自分と現在の自分と未来の自分は、同じ自分なのか

過去の自分と現在の自分、そして未来の自分という、時間を隔てた自分という存在は「同じ自分」だと言えるのだろうか、という問いをたまに考える。

例えば就活とか受験とか、そういう場面においては、過去と現在、未来のつながりを問われたり、一貫性を求められたりするけれど、実際に自分の考えることや感じることは少しずつ変化していて、まったく同じ自分ではない。当然だけども、細胞とかも入れ替わってるし。
名前が変わることもあるだろうし、所属するコミュニティによって自分のふるまいや考えが変わることもあるだろうし、そうやって考えてみるとあのときの自分と今の自分なんてまったく違う存在のように思える。

でも、わたしはわたしとしてこの21年間の人生を生きてきたし、これからも生きていくわけで、だとしたらわたしをわたしたらしめているものとはなんだろう、と思う。わたしの中にどこか変わらないこと、ものがあって、そこがわたし(自分)というものなのだろうか。あるいは、変わっていくものすらも自分なのだろうか。自分という言葉の指す範囲、わたしがわたしと呼称するものが一体なんなのか、またわからなくなっていく。

一方で、恋人に自分の過去について話してみたり、哲学対話にひっぱられて過去の選択を思い出してみたり、そんなことをしているうちにぼんやりと自分というものの輪郭が掴めてきた、と思うこともある。
自分の人生や言葉や感情をなん度も反復しながら、少しずつ自分を取り戻していく。何度でも同じ瞬間を生きる、生き直す。決して同じではない、でも同じなにかを繰り返して、次第にそれが同じではなくなっていく。そんな感覚。

2023/11/12 インスラグラムに投稿(@chances_study.ac)

細い線をなん度も重ねるようにして、いつしか自分という太い線が浮かび上がってくる気もする。思わぬところで過去と今のつながりを感じたりもする。
まったく同じではないけれど、ゆるやかに自分という存在がそこにあること、それだけは確かな感触としてわたしのなかにある。

2. 理想の自分になりたいと思うとき、それは今の自分を否定していることになるのか

これは、2023年初めに自分の中ですごく深刻だった問いで、はっきりと書き残しているものがあります。

自分の好きな自分になりたい、というのは中学生以来のわたしのモットーのようなものですが、最近これが自分で自分の首を絞めているのではないかと思い始めて、心がぐらぐらと揺れています。勿論、自分の好きな自分になりたいということ自体は悪いことではないというか、努力することや向上心を持つことが美徳とされるのは間違っていないと思います。ただ、頑張らない、飾らないそのままの自分は好きじゃないのか?と自分に問うてみると、そんな自分も愛せるようになりたいという気持ちが実はあったり。「自分の好きな自分」って結局のところ今ここにはない理想像で、本当の意味では「自分」じゃない。自分じゃない誰かに成り代わることで自分を好きになろうとしているのなら、矛盾だらけであべこべなモットーになってしまう。自分の好きな自分になりたい、なりたい自分になりたい、けれど、いまの自分も頑張らない自分も愛したい。自分ってなに?頑張るって何だろう?

背伸びをすること、ありのままでいること、頑張ること、強がること、いろんなことへの感情がぽろぽろとしていて、自分のなかでうまく消化しきれていないようです。マグニチュードの大きいぐらぐらがきている予感がします。
どうにか、ひっくり返らずに、強く生きたい。よく考えます。

2023/2/8 インスラグラムに投稿(@chances_study.ac)

自己肯定感、という言葉があると思いますが、理想を掲げることや向上心を持つことは自己否定になってしまうのだろうか、という、わたしにとっては地面がひっくり返るような問いだった。
自分というのが、前回見たように自分以外のものによって構成された、ごちゃごちゃしたいろんなものの寄せ集めだとすると、そこには自分が望んだものではない要素や変えたい部分が含まれてしまうことも勿論あって、そういう集合体としての自分を考えると、自己肯定とは想像以上に難しいものだなあと思えてくる。

3. 自分らしさとはなにか

大学の授業で「自分らしさとはなにか」という問いで哲学対話をしたことがあって、そのときに考えたことが少し残っているので引用してみる。

私は「自分らしさ」はあまり重要ではないと考えている。「自分はこういう人だ」と強く意識することは、自分を勇気付ける側面もあるが、自分を何らかの枠に閉じ込めてしまうという側面も持つ。私は、それが思考や言葉で自分を固定してしまい、自分の可能性や柔軟さ、あるいは多様性を知らず知らずのうちに狭めてしまう危険性を持つと考えている。そのため、安易に「自分らしさ」を作り上げてしまうのは良くないし、「自分らしさ」を持たねばならないという思考はおかしいんじゃないかなと思った。
また、私の場合「自分」が確立したのは親元を離れた頃だな、ということを対話の中で発見した。それまでは専業主婦だった母親と共有する時間がとても長く、自分が親の一部のような感覚があり、自分の選択や行動の責任を親に転嫁していたと思う。しかし、寮に入ってひとりで暮らし始めてから自分のことを文字通り自分で決めるようになり、いわゆる価値観が形成された。他の参加者はだいたい思春期以降に「自分」が形成されたと話していたので、(時間がなくて尋ねることができなかったが)親と共有する時間や距離感が「自分」の確立に何か影響を与えたりするのかなとぼんやり思った。

2022/5/9 授業ノートより引用

わたしたちは、どうにか自分らしさを持ちたいと願ったり、自分探しの旅に出かけたりする。でも、自分らしさなんてものはないかもしれないし、あるとしてもそれは自分に由来するものではないかもしれないし、自分らしさを定めることは自分をなにか/どこかに固定し限界を決めることになるのかもしれない。
実際、自分らしさなどない、と言い切ってしまうことは簡単だし、そういう主張をしてくる人も世の中にたくさんいる。でもわたしは、自分らしさとはなにかという問いの裏にある切実さを知っているから、自分らしさなんてない、と言い捨ててしまうことはしたくない。本当にそうだろうか、だとしたらどうしてわたしたちは自分らしさを求めるのだろうか。めげずにそんなことを考えてみたい。

4. 自分とはなにか

ここ数年のわたしの思考を少し整理しながら、どんなふうに自分という存在が揺らいできたのか、その中でなにを信じようとしてきたのか、信じたかったのか、そんなことをゆっくりとたどってきた。

これが、いまのわたしが信じられることだと思う、自分とはなにかという問いに対する小さな答えをここに書いておきたい。

自分ってなんだろうと考えていると、自他の境界線がどんどんぼやけて、曖昧になって、そのまま消えて無くなってしまうんじゃないか、なんて思うことがある(結構よく思う)。でも、自分の代わりに誰かに死んでもらうことは出来ないよなあ、と考えていたら、意外と当たり前に自他って別の個体であることが分かる気がしてきた。目の前のひとがなにか食べてもわたしのお腹は満たされないし、隣のひとがトイレに行ってもわたしの尿意は解消されない。どうやっても自分にしか出来ないこと・満たせないことがあって、それを発見するたびに、わたしはまだわたしなんだ、と思う。
だからこそ、自分が心を動かされた言葉とか自分の胸が高鳴った瞬間を、なによりも大切にして生きていきたい。わたしがわたしである、とたしかに思える欠片を拾い集めている。

2023/1/30 インスタグラムに投稿(@chances_study.ac)

内面的な要素ではなく、身体的な感覚だけが、いまわたしがわたしであると信じられることだと思う。思い通りにはならないし、生まれてきた元は自分ではないこの身体だけど、わたし以外にこの身体を支配することはできないのだ、と思う。

同時に、自分というものは、身体を中心にして同心円状に点在する「わたしを構成するなにか」の集合体だと思う。
ここまでが自分だと、はっきり線引きすることはできないけれど、確かにその要素のどれもが自分であり、同時に完全には自分でない。身体を含む自分というものが、厳密な他なるものとして他者や過去・未来の自分と区別されるわけではなく、そのすべてがゆるやかにつながっていて、切り取り方によって濃淡を帯びた自分になっていく、というだけな気がしている。

自分の気持ちにちょっと整理がついてきて、なんとなく落ち着いて生きられてる感じがする。自分を取り戻してきた。自分ってなに?私らしさとか自分らしさとか、それっていままでのいろんな自分以外の影響をめちゃくちゃ受けて形成されていて、もちろん大好きな友人や恩師や恋人によって作られた部分もあるけれど、その一方で許せない仕組みの社会や賛同できない常識や相容れない相手や、そういうものだって認めたくないけどわたしのどこかを作ったはずで。でもそれに気づいたからこそ、自分自身を再編成していける。自分にとって本当に必要なこととか大切なこととか、いまの自分のわかる範囲で選び取って身に纏って、自分自身を作り直していく。それが自分らしさとか、人生とか、そういうものなのかなって最近は考えています。苦しいことも辛いこともいっぱいあるけど、わたしはわたしなりに強く生きていきたい。強かに。

2023/6/15 インスタグラムに投稿(@chances_study.ac)

ありとあらゆる過去の事物がいまの自分を構成しているということ。それは、必ずしも良いものや美しいものばかりではなく、忘れたい記憶や出会いたくなかった人、望んだわけではない環境、すべてをひっくるめて自分だということ。
身体が食べたもので出来るのならば、わたしは経験したもので出来上がる。良いことも悪いことも、そうでないことも、あらゆるものがわたしを構成している。そしてそれは、必ずしも自分で選んだとは限らない。
だからこそ、自分には常に許せなさや嫌悪感が内在していて、でもその一部を取り去ってしまえばわたしはわたしではなく、そこが苦しくて難しい。自分のなかに他者が常にある、それも絶対に相容れない圧倒的な他者が。最も身近な他者とは自己の身体であるというが、わたしは身体よりももっと近いところに他者がいるような気がする。

2023/8/12 日記より引用

これが、いまのわたしの小さな答えである。

おわりに

ここまで読んでくださった方、ほんとうにありがとうございます。

自分とはなにか、という問いに対していろいろ考えてきたけれど、大事なのは答えより、”足元がぐらぐらする、でもそれが本当なのだ”という気持ちじゃないかなあと思っています。
自分なんてない、とか、自分は自分だ、とか、言い切ってしまうのにはまだ早くて、変化しゆく自分や逆に変わらない自分に目を向けて、ゆっくりと、なにが自分なのだろう、自分とはなんだろうと考えていくことが大切なのではないかと思います。
遠回りのようでいて、実はこれが、いつか見つかるかもしれない答えへのいちばんの近道なのではないかという予感。

これからもぐるぐる、ゆらゆらしながら、わたしを生きていこうと思います。


読書案内

わたしが影響を受けた(であろう)本をいくつか貼っておきます。読みかけのものもあるので悪しからず。

また、本ではないですが、数年前にこんなことを一緒に考えてくれた人たちがいるので、感謝の気持ちとともにそっとリンクを貼っておきます。


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