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お酒にまつわる私のトラウマについて

お酒を飲んでいる人を見るのが、私は苦手だ。

こんなことを言うと、たいていの人は私のことを変だと言う。その通りだと自分でも思う。お酒が飲めない人はいるし、お酒が嫌いという人もいる。

私はお酒は好きだけれど、誰かと一緒には飲まない。なぜなら、人がお酒を飲んでいる姿を見ると、心がざわざわして不安に駆られるからなのだ。

理由はきっとトラウマのせいだろう。今まで私は多くの大切な人たちの人生をお酒が奪っていくのを目にしてきた。尊敬していた人、憧れていた人、大好きだった人、仲が良かった人、みんなお酒のせいで、もうこの世にはいない。まだ生き残っている何人かとは、もはや昔のように心を通わせられない状況になっている。

お酒が奪っていった人たちは、私がアメリカで出会った人たちだった。かつては一緒にバーに行ったり、仲間同士でフランクなパーティーを開いたりして、一緒にお酒を飲んだ。彼らは年齢も性別も人種もばらばらで、つまり私にはかなり幅広い友人がいたことになるわけだが、逆説的に言えば、人がお酒に依存する状態に陥るのに、年齢や性別や肌の色はまったく関係ないということにもなる。

アルコール依存症はある日突然なるものではない。日々の積み重ねで、自分でも気づかないうちに蝕まれていく。悲惨な生い立ちが関係しているとか、現在大きな悩みを抱えているからといった理由付けも、じつは説得力がない。壮絶な生い立ちの人でも、悩みを抱えている人でも、アルコールに頼らない人は多くいるのだから、依存症の原因をそれらにもっていくことは、むしろ原因の究明を複雑にするだけだ。

それではどうして人は依存症になるのか?という原因は、現在の心理療法の世界ではまだまだ解明できていない。

つまり、私たちはアルコールによって、因果関係が不明の病にいつ陥るかもしれないというわけだ。

こんなことを書くと、なんてつまらない堅苦しい人間だろう、と思われてしまうだろう。確かにお酒は美味しいし、多くの人と楽しい会話を繋いでくれる。幸せなひとときを与えてくれるお酒を悪者にするつもりはない。

けれど、失った人たちの顔を思い出すと、なんだかいたたまれない。

「飲みすぎだよ」「もうやめたら」

何度そう言ったことだろう! けれど彼らは「all right」や「no problem」などと答えて、聞いてくれなかった。聞く耳を持たなくなっていた時点で、あの頃すでに手遅れだったのかもしれない。もっと早くに気づいてあげられれば、助ける手段もあったのかもと思うと、本当に悲しい。

トランプ大統領は、「多くの有能な人間が酒によってダメになっていくのを、俺は見てきた」と以前にテレビで言っていた。彼はいっさいお酒を飲まない人だという。トランプ大統領は口は悪いが、この言葉には頷けるものがある。

今かろうじてアルコールに溺れながらも、なんとか命にしがみついている私のアメリカの友人は、大学教授だ。学生時代からの恩師でもあり、歳は親子ほども離れているけれど、今は親友のような存在になっている。先生の自宅に招かれた時、先生は朝からカクテルを作り、一日のうち食事はほとんどしない。飲むとアルコールで胃が膨らんで常に満腹の感覚になり、食事ができないという。もはや助けようがない状態で、私はただ悲しい。ずっと尊敬してきた先生であり、今も社会分析にはするどい着眼点を持っている人なのに、お酒を飲むと素晴らしい才能が見る見るうちに擦れていく。尊敬する人が周囲から酔っ払いと厄介払いされている姿を目撃するのも、とても辛い。

最近は、日本でも静かにゆっくりと、アルコール依存症が蔓延してきているように思う。

私は日本のある著名な哲学者に憧れて、彼が東京で開いている哲学サロンのような場所に通っていたことがあるのだが、そこで哲学者は、講義の間じゅうずっとワインを飲んでいた。私が見る限り5時間でも6時間でも飲み続け、一度の講義時間とアフターの集いを合わせると、ワインボトル3本は軽く空けていた。哲学講義はテーマを変えて毎日行われているから、彼は毎日ボトル3本は必ず飲んでいた。

その哲学者は飲む理由をこう言っていた。

「俺は生まれつき頭が良くて、頭の回転が速すぎるから、お酒で少し頭の回転をゆっくりさせないといけないんだよ」

彼の言葉を聞いた時に、私はアメリカの友人たちを思い出した。みんなそれぞれ自分の中で最もらしい飲む理由を見つけていた。たとえそれが他人が聞いたら可笑しな理由であろうとも、本人たちの中では正しい言い訳なのだろう。

私の友人たちしかり、その哲学者も、酔っている時とシラフの時で人格が変わることもあり、どのように対面してよいのか戸惑うこともあった。著名な哲学者であるにもかかわらず、彼の言葉を真に受けていいのか、受け流すべきなのか迷っている自分が嫌になった。

アメリカでは最近、静かな禁酒ブームが始まっている。アルコールいっさいなしのパーティーや、お酒を飲む姿を他人に見せないように配慮する店など、国民をこれ以上アルコールに持っていかれないようにするための工夫が始まっている。

しかしつい最近、日本である芸能人のトークショーに行ったところ、その芸能人がステージ上でビールを飲んでいた。ビール瓶を片手にステージにあがってきたのだ。それ以前にも、お客さんに「ワインを飲んでほろ酔いになってきた」と打ち明けてから、トークショーを始めることはあったが、ビール瓶を手に話し始めたのを見た時は、どきりとした。

他のお客さんはとくに気に留めているふうでもなかったので、その芸能人の行為に強烈な違和感を覚えたのは、おそらく私だけなのだろう。

日本ではいまだに、お酒を飲むことはカッコいいことだ、という考え方がある。だからその芸能人も、自分のカッコよさをアピールするパフォーマンスとして、そうしたのかもしれない。私だけがそこに病的な想像を見出してしまうのだろう。

ここはアメリカではないのだと、頭では分かっていても、心が暗く沈んだ気分になる。

今回の話に結論はない。結論などとても出せそうにない。お酒とはバランスの良い付き合い方をしましょうと、当たり障りない文章で締め括ることもできるが、まずは私自身がお酒で失った友人たちに対するトラウマを克服することから始めないといけないのだろう。

読んでくださり、ありがとうございました。

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