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日本人には人間愛が足りない!?ーーmetoo運動と福島被災者の弱いつながり

2018年が始まりそろそろ一か月が過ぎようとしている。昨年2017年を振り返って思うのは、昨年はかつてなく告発が目立った年だった。これまで声を上げられなかった人々、特に女性たちによるmetoo運動が起こったのも特徴的であった。そして同時に、声を上げる人々に対して激しくバッシングする言動をネットなどを介して目にすることが多かった。

どうして日本人は被害者を責めるのか?

まずはmetoo運動から話を始めよう。ジャーナリストの伊藤詩織さんやブロガーのはあちゅうさんなど、勇気を奮って世の中のために声を上げた人たちに対して、どうしてあそこまでのバッシングが起きたのだろうか? 告発の内容が社会的地位のある特定の男性への批判だったから? 性暴力やセクハラという世間が蓋をしておきたいデリケートな問題に触れたから?

私は一連のこの問題について、彼女たちがバッシングされた原因はもっと日本社会一般の広いところにあると思っていた。深いところではなく、広いところである。

アメリカでの経験

私にとってmetoo運動はまったく目新しいものではなかった。なぜならアメリカでは毎年4月になると、性暴力やセクハラなど性犯罪に遭った女性たちが町を練り歩くデモ行進が行われているからだ。デモの名前は「Take Back the Night March」という。全米の大学どこでも広く行われているデモで、大学のキャンパスを出発し、近隣の町を練り歩く。学生でなくても、性犯罪に遭ったことがない人でも、誰でも参加できる。私も毎年参加して、行列のひとりとしてプラカードを持って町を練り歩いた。男性の姿やカップルでの参加者、子供連れの参加者も多い。男性参加者の中には性犯罪に遭った女性への理解がある人だけでなく、彼ら自身が他の男性から性暴力を受けた過去を持つ人も多い。「Take Back the Night March」の意味は、直訳すれば夜を返せ。性犯罪に遭った人々がいくつもの眠れない夜を過ごした、という暗喩である。

前述のとおり、このデモに毎年参加していた私だが、デモへの批判やデモをやめさせようとする嫌がらせ行為などを耳目にしたことな一度もない。それどころか、近所の人に「明日あのデモに行ってくるよ」と話せば、「いってらっしゃいね」か、もしくは「僕も(私も)時間があれば顔を出してみようかな」と返事が返ってくるのが常だった。

しかし、このように答える人々が皆、性犯罪に対して深い理解があるかといえばそれは疑問だ。むしろあまり理解などしていない人の方が多いだろうと思う。深くは理解していない。けれど声をあげる人々に対してゆるく同情はしている。皆、その程度だと言っていい。

そして私はこのその程度こそが、社会の寛容性だと思うのだ。

性犯罪に遭ったことがないなら、被害者の恐怖やトラウマを完璧に理解することなどできないし、セクハラに遭ったことがなければ、その苦痛は話を聞いただけではリアルには伝わらないかもしれない。けれど、ああ、大変だったんだね。さぞ腹が立ったんでしょうね。すごく怖かったんでしょうね、と思うことならできる。そのような「ゆるい同情」の気持ちこそが、このデモを支え、そしてmetoo運動を社会に広げていく。

Take Back the Night Marchは日本でも普及するか?

日本でも「Take Back the Night March」は小規模だが行われてはいる。しかし知名度はないし、残念ながらアメリカのように全国規模で普及・定着することはないと思われる。かりにいかにも日本らしく、行政主導のもとで開催されたとしても(アメリカでは有志によるもの)現状の社会環境のままでは参加者をかえって傷つけることになりかねないだろう。日本では、性犯罪が起こると、被害者の落ち度をまずは探そうとする傾向が強い。時代が変わっても落ち度探しの風潮は依然根強く、しかも女も男もこの傾向を持っている。

ちなみにこの、被害者にも落ち度があったという考え方は、アメリカ及びカナダ、オーストラリア、フランス、イギリス、ドイツ、北欧など(略して欧米とする)では典型的な「レイプ神話」と呼ばれている。神話とは事実と異なることを信じ込むことから端を発し、それがどんどん拡大解釈されて、例えば、「格安観光バスの転落事故では、そんなバスに乗った方も悪い」とか、「スキーで雪崩に遭い、遭難したら、スキーなんかに行って遊んでいる方も悪い」といった具合に様々な事例に適用されていく。

日本では特にそういった神話が広がる傾向にあり、そしてそれを信じる人々に男女の区別はない。

ちなみに欧米ではレイプ神話は1970年代から、それに対抗するべく理論が展開されてきた。例えば、男を挑発するような服を着ていたから被害に遭ったという意見に対しては、「女は自分の好きな服を着る権利がある」という論で対抗し、また服装と犯罪の因果関係が実際にあるのかを検証するために、全米のレイプ被害者の被害当時の服を展示するイベントなども行われており、そこで分かったのは、被害者は濃い色のTシャツにジーンズなど地味な服装をしている人が多かったということだ。

しかし日本ではレイプ神話が検証されることがほとんどなく、それどころか伊藤詩織さんの告発が反日活動であると叩かれたことなどから分かる通り、被害自体とはまったくズレた観点でバッシングが始まる傾向さえある。元上司からの数年にわたるセクハラ被害を告発したはあちゅうさんが、自身の過去のTwitter投稿を批判されたのもその一例である。

日本人はなぜ被害者を責めるのか?

再びこの疑問に立ち返ろう。

この疑問の答えを探すためには、もっと視野を拡げないといけない。

私たちは2011年3月11日に震災を経験し、東北地方で多くの被災者を見てきた。彼らはその後、どうなったのだろうか? 福島で放射能の危険から他県に引っ越した家族はその後どうなったのだろうか?

2016年、福島で被災して横浜に引っ越してきた小学生の男の子が、学校でいじめに遭っていたというニュースが話題になった。「おまえの家は補償金もらっているから金持ちだろ」とクラスメートから脅されて、数十万円にもわたる現金をゆすられていたという。両親も何度も学校に相談していたが、取り合ってもらえずに「八方塞がりの心境」だったとメディアに打ち明けた。

この事件とmetoo運動などの性犯罪がどう結びつくのか、と思われる方も多いだろうが、両者の共通点は既述と同じく、被災者でなければ、被災者の苦労は本当には分からないことや、いじめ被害者本人でなければ、彼の深い苦しみは知りえないことである。けれど私たちは同じ人間として、ああ、大変だったのでしょうね、さぞ悔しかったでしょうね、なんて酷いことをされたんでしょうと、ゆるい同情の気持ちを寄せることくらいはできないだろうか?

ちなみにこの横浜の事件では、関係者筋から聞いたところによると、事件が公になった後、いじめに遭った小学生とそのご家族は学校からバッシングに遭い、また故郷の福島の住人の一部からも「故郷を捨てたから、こんなことになったんだ」と言われたり「被災者のイメージを損ねる事件を起こしてくれた」などと激しく批判されたという。

横浜の事件のことを私がアメリカで話したところ、多くの人々から「困っている人をなぜ責めるのか分からない」と、あ然とした顔をされた。彼らは私の話を聞いて怒りを覚えるというよりも、本当に分からないといったように口を大きくぽかんと開けていた。その表情を見て、これが人間だよな、と思った。

人間愛という言葉がある。それは人種や性別や国籍や年齢や生活環境の違いを超えて、人が人に対して共感や同情をすることである。

知らない相手のことを深く理解しようとしなくてもいい。ただ、ゆるく同情を寄せるだけ。その程度でいい。しかしその程度が日本の社会にもう少し増えれば、性犯罪被害者やmetoo運動参加者やいじめ被害者や震災被災者に対する苛烈なバッシングが減り、声をあげる人々がもう少し声をあげやすい世の中にあるのではないだろうか?

2018年は日本にもう少し人間愛を増やしたい。

カワカミ・ヨウコ

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