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何処かに所属しているという安心感からの脱却をしたい~ディケイドから見る多様性~

最近では多様性を考えるに伴って、僕なりに僕自身ができそうなこととして何があるのかを少しばかり考えるようにしている。多くの人が自分が思うように生きていくことができるようにするにあたり僕らができることはなんだろうか、と考えた時に、マジョリティだのマイノリティだの、そういったカテゴライズにより生まれる共同体に、自分自身が属しているという意識からの脱却が一つの方法としてありえそうかな、と考えるようになっている。

ただ、ここから先は僕自身でもうまく表現できないのだけれど(まだ何も話を始めていないに等しいじゃん!というツッコミはあると思うが許してくれ)、注意してほしいのが、別に共同体自身の存在自体は否定しないし、場合によっては必要なケースも存在しよう、ということである。例えば、仕事のプロジェクトを遂行するにあたっては、プロジェクトチームという名の共同体が必要になってくるだろうし、そういう表現がないと不便であることは間違いなかろう。

僕が共同体からの脱却を言うとき、その共同体というのは、基本的には現代において一つのテーマ性を有するもので、露骨に一定の故意をうかがわせるように言葉を選ばずに言うならば、男性と女性、黒人と白人といったら区別から生じてできた共同体といったようなものをイメージしていただけたらと思う。所謂現代における差別とされる事由から生じた共同体のことが狭義の共同体というものである。あぁいったものによる差別というのは差別反対がよく言われるようになった現代になっても依然として残っているもので、中々消えない。そういえば一番驚いたのは、近代における啓蒙主義である。西欧の方が他地域よりも優れているという価値観から他地域にも教えて矯正してやろうという考え方だったと思うのだけれど、よく考えたら西欧の方が優れているっていう理由はないんですよね。てか比較の仕様がない。だって文化とか共同体の優劣って数字とかいう客観的でかつ絶対的な基準で評価できるものじゃないはずで、そもそも経路依存性が絡んでいる以上地域ごとで異なるコミュニティができるのは至極当然の話。ただ、何故かそこで比較をしだすんですよね人って。マウント取りたがるという表現でいいのかな?白人至上主義とかいうのも白人を構成員とする共同体と黒人を構成員とする共同体との比較から始まり、そこに何故か自分自身が優れているという評価を入れているが故に生じてしまった問題でもある。

で、現代ではそういった差別の是正を求める運動が世界各地で生じている。けれどもそれは逆差別を生むのではないか、という問題が指摘されているのも事実で、アメリカにおいてはとある差別是正運動が逆差別に当たるとして違憲判決が出された、という事件があったらしい(聞いただけなので詳しいことはわからない)。差別是正運動って、歴史的沿革から生じた差別への『反発』だと思っている。

これこそが共同体間比較による優劣決定の問題を拗らせているのではないか、と感じている。ここでは大袈裟に、共同体を「世界」という言葉に換言しようと思う。具体的には白人という構成員から形成された世界、黒人という構成員から形成された世界の二つがあるとしよう。

ここで、唐突ではあるけれど、仮面ライダーディケイドの話に飛ぶ。仮面ライダーディケイドでは、9つの物語(世界)が融合しようとしてやがてはそのすべての世界が消滅する、と紅渡はディケイドこと門矢士に話し、そのすべての世界を破壊しなければならないと伝えている。複数の世界が一つになろうとするとき、それらは互いに競合するのである。でも、その競合というのがもたらすのは世界の破滅でしかない、そこでそうなる前に世界の破壊者たる存在がすべての世界を破壊し融和を防止し、その破壊者がその複数の世界を再創造するというものである。

ディケイド 世界

この仮面ライダーディケイドにおける世界の概念というのは実は現代世界の共同体関係から生じた衝突・マウント取りにも当てはまるところがあるのではないかと僕は思っている。同じ地球という船に乗っている者たちがそれぞれの世界を作るがその世界が互いに争い一つになろうとしているけれど、実はそれは実に不毛なもので、それどころかその競合は互いの世界の消滅をもたらすというものである。勿論、このまま消滅してしまえばそれまでだからいいではないかという意見もあるかもしれないが、それでは多種多様な世界とその中で生きる者たちが存在していくという前提を破壊してしまうもので元も子もないからその意見はここでは省かせてもらう(そういう意見もまた多様性の一つであろうから否定するつもりはないということだけは了解しておいてほしい)。

では、ユニバースと向かおうとしている複数の世界の崩壊を止めるにはどうすればいいのか。ディケイド的世界観から考えるに、それはその世界の破壊と再創造であろう。その世界に存在する虚構を破壊するのだ。そして、その世界を再び生み出すのである。ただ、新たに作り出された世界とは他の世界との競合・比較による優劣決定をしないようなものであろう。「この世界以外には、○○という世界が存在するのか、ふぅん。ま、いいんじゃねぇの?」というかんじで。落合陽一さんの言葉を借りてかつ僕なりに勝手にその言葉を解釈していいなら『みんな違ってどうでもいい』ということである。違う世界があってもその世界との優劣決定なんてしないで、存在自体は認める位でいい。勿論、その世界について個人的に「どうにも違う気がするなぁ」というなら、距離とっておけばいいだけのことである。そして人との距離のとり方についてもよほどのことがない限りグダグダいう必要もなかろう。

まぁ、具体例を挙げるなら、僕の経験談なんだけれど、僕の知人で中々に過激なことをツイートしてる人がいてその人俺のフォロワーだったんだけれど、その人ブロックして直ぐにそのブロック解除したんだけれど、どうにも彼はそれが気に入らなかったらしく、「多様性語っておきながらこういうことするのは許せん」と言っていたらしい(彼の知人かつ俺の知人経由で聞き出した)。ただ、これって個人の許容範囲の話になるんだけれど、個人の範囲についても多様性というのは妥当すると思っていて、ここまでならいいけどここから先は無理かな、というのはあっていいと思っている。それで「一時距離を取ろう」と思って距離をとる措置をすることはその人の考えてることとかは排除してないわけで、上記の様なマウント取りとか排除ではないのではないかと思うのだが皆さんはどう思うだろうか。あくまで世界・個人の存在自体は認めるけれど、その内容までもが認められるかどうかの保障はないというカンジの多様性。存在自体の肯定と、自分が言っている・思っていること全部が受け入れられるかどうかとは別問題であろう。だって上記の通り個人の許容範囲にも多様性が妥当するのだから、自分の中でバランスのとり方もまた千差万別であって然るべきなのだから。

同様に、Twitterでブロックされていたら「こいつ最低だな」とかいう人いるけど、自分が受け入れてもらえなかったのを相手方の責任として押し付けるのはかなり無責任というか身勝手ではなかろうか。上記の通り他人がどこまでなら許容かというのは人や世界によって違う。それを受け入れなかったことを、自分は受け入れられて当然だ、と思い込んでしまうのは変な話である。自分がいつでも受け入れられる、というテーゼの証明など、誰も為しようがないのだから、それなりの想定をしておかなければならないだろう。

まぁそれが実質的差別とか、上記の様な競合になるなら話は別で、その時は「そう思うのはご自由ですけど、こっちもこっちで好きなようにやってるし、どうでもよくないですか?変に優劣決めるの不毛なんでやめません?あ、ついでに多様性とかの問題一緒に考えませんか?」と言ってしまうのは一つの手段としてありそうである。

さて、以上のように、複数の世界の共存・多様性をどう実現するか、を僕なりに考えてみたのだけれど、これが「何処かに属している安心感からの脱却」というこの記事のタイトルとどう関係するのか、というのがここからの話である。ただ、ここから先は僕自身が実践したいと思っていること(つまりは僕自身の現在の意思)なので、話半分で聞いてくれればありがたい。

実のところ僕自身はこの共同体の中にいるという感覚から脱したい。確かに上記の通り多様性の実現を考えた時に、世界の存在自体の肯定及び不干渉・マウント取り不作為・優劣不決定というのを上げたけれど、世界(そろそろ共同体という言葉に戻すか)の存在というのは実はその共同体に複数人が所属していることを前提にしている。上記はその共同体の存在を前提にした方法を僕なりに書いてきたつもりなのだけれど、僕個人では、その共同体に属しているということが無いようにしたいのだ。例えば、僕は日本国籍を有する日本人である、というものではなく、僕は人です、もっと言うなら僕は生命体です、極論いえば『僕は何かです』というものである。ここからわかることは、「何処にも属さない」ということと「何処にも属している」というのはこの場合において表裏一体をなすものである。通常なら矛盾してるじゃんよ!というツッコミしかないところなのだけれど。より広範な概念を以て自分を表象したい、というのがとどのつまりである。これって、読者の皆さんと僕自身が「実は同じですよね」というカンジである。

ここで、今まで論じてきたことって実は細かい概念によるカテゴライズだということに気づいただろうか。白人と黒人という概念は「人」というより広範なが概念よりも狭いもので、それによりカテゴライズしていたのだ。だが、白人も黒人も同じ人という同一の概念に包摂されるものである。さらに言えば、人というのは生命体の一種であるから、犬・猫とヒトは実は同じですよね、さらに言えば、物も生物も同じ「存在」・「何か」ですよね、ということでどんどん共通事項を括りだしてそれを表象する概念でまとめてしまう。その上で「俺もあなたも同じでしょ?そして経路依存性があるのもまた事実。なら、理念型では僕もあなたも究極的には同じものでかつ、僕とあなたには経路依存性により異とするものであるからその差異があること自体を認めてそれ以上は不干渉・どうでもいいじゃないの」とする。これこそが僕が実践を目指したいものである。

ただ、実はより広範で抽象的な概念による自と他の包摂は度が過ぎると自分とは何者なのか。究極的には「もの」だけれどそれしかアイデンティティ見出せないのでは?となりそうである。つまり、アイデンティティというのは自と他の比較によって始めて形成の基盤ができるものであるから、自と他の区別がない、もしくは曖昧となっているという状況が形成された時、自分とは具体的に何者なのか、というアイデンティティが喪失される問題が出てくる。でもアイデンティティを守ろうとしてより狭い概念で自分を見出そうとすると白人黒人とかいう狭い共同体が出てきて共同体同士が競合する危険もある(それについては上記の通り互いにその世界の存在自体を認めて優劣つけないでおく、というのが理想的なのだけれど、中々それが上手いこと実現できてないという事情があるからこそ、何処かに属していない⇔どこにも属しているという選択肢を考えてきたのだ)。そこでアイデンティティを如何に形成していくか、アイデンティティ形成の素材をどこから引っ張ってくるか、というのが問題となりそうである。

これについては現在字数が4746字と僕のnoteの中でもかなり長い方なので別記事で書くこととしよう。

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