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「文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。」をまだ110ページしか読めて無いが、感想を書かずにはいられなかった


文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。

この本のタイトルに僕は悔しくなった。

これはライターのpatoさんの新作著書のタイトルである。

この本は、表現者が一番大切にしなければならないモノは自分の感情であり、その感情をどの様にして相手にうまく伝えるかを丁寧に書かれた本であると僕は思う。

僕はこの本を読み進める毎にpatoさんが文章を書き続けた22年間の歳月に思いをはせると自分の文章の拙さ、経験の薄さを如実に実感してしまう。

patoさんには勝てない。

絶対に勝てない訳ではない。ただし勝つ方法がpatoさんと同じ様に22年間真剣に文章を書き続けなければ僕らはpatoさんの様に熱容量のある面白い文章が書けないことが、この本に書かれている。

感情の言語化、文章力の筋トレ、patoさんの狂気的な努力

どれをとってもpatoさんは文章を書く一流だ。

天才とは言わない。
この本を読んでpatoさんは天才だというのは、小学生から本当にやり直した方がいい。

patoさんの文章力はpatoさんの狂気的な努力、もしくは文章を書かなければ自分には価値が無いというネガティブな感情から続いたこの22年間の数多の文章の結晶だと僕は思う。

はっきり言ってpatoさんは気が狂っている。

この本に書かれていることは相手に自分の感情を文章で伝えるための方法論だ。しかしこの方法論はpatoさんが独自に編み出した方法論ではあるが、patoさんが22年間文章書き続ける事によって獲得した方法である為、だれもが試す事が出来る一般論として昇華している。

独自の方法論を一般論へ昇華し、それを誰にでもわかるように本にまとめたpatoさんは、稚拙ながら文章を書く身としては驚嘆すべき偉業であると本当に思う。

そしてこの本には他に類を見ない創作活動のノウハウが詰まっている。

そのノウハウは物を作る人なら誰しが薄々は気付いていることではあるが、具体的に言語化し、再認識させてくれる本書は文章を書く身としてはとてもありがたい。

具体的に本書に書かれているノウハウの一部は以下の様な物だ。

1つの文章を色んな文体で書き換えてみる練習方法

感情の言語化

である。

1つ目の「1つの文章を色んな文体で書き換えてみる練習方法」は、文章力の基礎トレーニング、人間で言う筋トレの様な物だ。

自分が書いた1つの文章を別の角度から見てみたり、別の文体にしてみたり、シリアスな内容をコメディに捉えられる様に変換してみたり、様々な書き方を行う事で文章の引き出しを増やすトレーニングだと思う。

1つの文章を色んな文体に変えることは、ある程度文章を書いたことがある人であれば難しい話では無いが、それを10個以上別の文体に書き換えるのは至難の業である。

本書でpatoさんは1つの文章を100個の別の意味合いに取れる文章に書き換えられる様になれば良いと書いているが、それは信じられない文章力だ。
patoさんは例文として1つの文章から7個別の話を書いて見せているが、たぶんpatoさんは本当に1つの文章を100通りの書き方で表現することが出来るのだろう。

1つの文章から100通りの表現が出来たらそれは、誰もが1人前だと認めざるを得ないだろう。

そして、もう1つのノウハウが「感情の言語化」だ。

人が文章を書くのは、自分の感情を相手に伝えたいからだ。
だから自分が感じている感情を正確に把握して言語化する事は、文章で自分の感情を表現するためには欠かせないスキルとなる。

僕が読み進めた110ページまでには感情の言語化能力を向上させる方法はまだ登場していないが、僕が知っている言語化能力を向上させる方法として、小学生向けの国語読解力ドリル小学生1~6年生までを全て100点取れる様に何度も解き続ける方法がある。

言語化能力と読解力は表裏一体の能力で、人間で言う呼吸の様な物だ。

息をいっぱい吐くためには、息をいっぱい吸う必要がある。逆も然りだ。

何が言いたいかと言うと、読解ドリルで読解力を向上させる事により、書いてある文章を正確に読み解くことが出来るようになる。
そうすると作者が何を伝えたいのか、何を考えて文章を書いているのかを理解することが出来る様になる。

書かれている文章を正確に理解できるという能力は自分の感情を正確に理解するための手助けになる。

読解力を向上させることにより、自分がどんな感情を抱いているのか、その原因は何のかを読み解く力が向上し、感情の言語化が可能になる流れだ。

感情を言語化するためにまず自分の感情を単語の箇条書きでもいいから書き出してみるといい。
その単語達が今の感情を形作るっているから、それを使えば今の感情と合致する文章が出来上がるはずである。

日本語が下手な外国人との会話でも、単語を並べられるだけでも聞いてる方はある程度は理解出来る様に、まずは感情を単語単位で書き出してみて、その単語を使って、どうしてその感情が生じているのかを具体的に文章化することで、感情の言語化が可能になる。

そして言語化能力が向上するということは文章力の基礎の向上につながる。
まずは読解力の向上を図ることが、結果として文章力を向上させることになるので、僕は文章力を向上させたいという人にはまず小学生向け読解力ドリルを購入することをお勧めする。

その際には決して中古や、図書館で借りたりせず、新品を自腹で買わなければならない。
中古や人から借りた物ではインプットの質が格段に悪くなる。

もし100円で中古の読解力ドリルを買うと、100円だからやならくなってもいいやという思考に陥る。
しかし新品を自腹を切って買う事により、わざわざ高いお金を払って購入したのだからやらないといけない!というプレッシャーを自分に与え、本を買ってやり切るモチベーションが生まれる。

だから何かを勉強してインプットしたい時は、教材を経費で買ったり中古で買ったり、図書館で本を借りるのでは無く、必ず自腹を切って教材を買うようにした方が確実に力は付く。

僕も読解力ドリルは自腹で購入して勉強をした。

話が大きく脱線したが、patoさんが本書で求めている「感情の言語化」にはまずは読解力を向上させることを僕はお勧めする。

個人的に思うに、もしかしたらpatoさんは言語化能力がそこまで高くないのでは無いかと僕は思っている。

いくつかそう思う理由はあるが、本書の中で読者に「断絶の言葉」という、「エモい」「キモい」などの単語を使うなと書いているが、なぜ使ってはいけないのかを具体的には書いていない。
使ってはいけない理由をpatoさんの中で言語化出来なかったために、使うなと感情的に書いているのだと思う。

ただし、「エモい」「キモい」という言葉は、感情を言語化をしたいのであれば使わない方がいいと僕も思う。

理由としては「エモい」「キモい」という単語には色々な意味合いが含まれている為、その単語1つでコミュニケーションが成立してしまう。

感情を端的に伝えるのであれば良いかも知れないが、それを文章にして他人に読み取ってもらう際には「エモい」「キモい」だけで表現しているのでは相手に自分が感じた感情は上手に伝わらない。だから、表現者はまず自分の感情の細分化しなければならない。
日頃の会話で感情を表現する時に「エモい」「キモい」を多用し続けると自分が何に対して感情を抱いたのか分からなくなり、感情の細分が出来なくなる。
だから「エモい」「キモい」という単語は使わない方がいい思う。

他にも「ヤバい」「ウザい」なんかの若者言葉も、これらの単語1つでいくつもの感情を表現でき、利用する場面もとても豊富である為、美味しいものを食べても「ヤバい」、危ない状況に陥っても「ヤバい」と表現してしまう。
自分が何を食べて、どんな味がして、誰と食べているから「ヤバい」のかを理解していないと感情の言語化が全て「ヤバい」で終始してしまう。

そうしたら「ヤバい」を使う人は感情の全てを「ヤバい」だけでしか表現出来なくなり、当人はどんな状況で誰とそれを分かち合ったのかを理解出来ない為、感情の言語化が出来ず、表現を行う段に入ると「文章に感情をうまく落とし込めない」という状況に陥る訳だ。

ただ、patoさんはこの説明と同じことを本書で書いているのだと思うが、具体的な理由は書かれていないので、やはりある程度patoさんは言語化能力、ひいては読解力が少し低いのかも知れないが、文章量と文章力は比例する関係にある為、この本を書き上げたり、22年間文章を書き続ける事によって、今の膨大な量の文章量を書き上げられる文章力を自力で築き上げたのだと思う。

patoさんが文章を書くことに注いだ時間や努力を想像するだけで僕は気が滅入る。

そこまで文章に向き合って生きる事が僕には出来ないからだ。

patoさんは本書の中で、感情を上手に表現出来ているのであれば文章が文法的に整合性が取れていなくてもいいと書いている。

だから本書でも文章の整合性が取れていない箇所がいくつかあるが、それでもpatoさんが伝えたいことはわかる。
作者が伝えたい感情が読者に伝わっているのであれば正しい文章を書くことはさして重要ではない事がわかる。

そしてそれを一番端的に表現しているのがこの著書のタイトル

「文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。」

文章を書く上で一番重要で一番大切な事をここまで端的に表現されたタイトルは他に無いだろう。

だから僕はこのタイトルを読んだ時に一番大切な事を自分は表現出来ておらず、そしてそれを続けられているpatoさんに対してとても悔しくなった。

僕はまだこの本の110ページ目までしか読めていない。

それでもこの本の熱量、そしてここに書いてある創作活動に対するノウハウは確実に僕の様なまだ拙い物しか書けない人々には重要な事がたくさん書かれている聖書の様な書籍になっていることは間違いない。

ただし、この本を読んで、この本の通りに文章や何かしらの創作活動をしていてもダメだと僕は思う。

それは、この本に書かれていることを真似しているだけではpatoさんには勝てないからだ。

patoさんを超える文章を書くためには、ここに書かれている以上の何かを読者それぞれが今後獲得していかなければ、いつまで経っても僕らはpatoさんに勝てる者にはなれない。

ようは敗者だ。

この本を足掛かりにしてでもいいから僕はいつかpatoさんに勝てる文章を書いてみたいと、ページを進める毎に強く思っている。

この本を読んで、よかった、楽しかった、タメになっただけでは無く、もっといい文章を書いて、patoさんに勝ちたいと思ってくれる人がいればいいのにと僕は切に願う。


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