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小説の登場人物は感情の言語化がうますぎる

本、好きです。と、胸を張って言えるほどたくさんの本を読んでいるわけではないんですが、本を読むこと自体がすごく好きです。文章のプロが書く文章が好きなんです。

とはいえ、居酒屋で毎日阪神戦を見ているおっちゃんが盗塁できないように、本を読んだからと言って自分の語彙や文章が向上するわけではありません。最初の短い1段落で「好き」を3回も使っていることからもなんとなくお察しいただけると幸いです。

「ここに帰着させるがゆえに意識的に使ったんじゃないか」と一瞬でも疑った方、ありがとうございます。僕をかいかぶっています。

1.どんな登場人物も

小説の中の登場人物は、文章のプロが作り上げた存在です。身寄りのないお年寄りも、要領の良い若者も、音大付属高校に落ちた高校生も、マッチングアプリで結婚相手を見つけた田舎出身のアラサー女子も。みんな着ぐるみの中は小説家。

なので、みんな自分が置かれている状況や抱いている葛藤や感情の整理・言語化がうますぎる。どんなに不器用な登場人物も、痒いところに手の届きまくる語彙で感情を表している。

そりゃそうなんです、読者に感情を伝えないことには何も始まらないから。どっかの誰かのブログように「この感情にまだ名前はない」みたいな逃げの文章ばかり書いていたら、その登場人物は誰にも共感してもらえません。ああ耳がいたい。

決してそんな野暮な視点で大好きな小説を斬りたいわけじゃなく、本を読めば読むほど「感情は常に言語化できるものだ」と錯覚していっている気がする、というのが主題です。

2.自分も言語化できる気になってしまう

僕は一流作家の登場人物ではなく、着ぐるみを剥いでも出てくるのはどこの馬の骨ともわからない大学生です。状況感情言語化能力なんてありません。

ただ、日常のすべての出来事において自分が思ったことは言語化できるものだし、しなければいけない、とすら思っている節がありました。本のおかげというか、せいというか、なんというか。一種の自惚れですね。

「喜怒哀楽のどれだよ」という東京03飯塚さんかなんかのツッコミがすごく好きですが、多分現実の感情なんてほとんど喜怒哀楽のどれでもありませんし、今ある形容詞単体では表せない気持ちがたっっっくさんあります。

電話相手の声が本人の声ではなく"限りなく近い合成音声"であるように、僕たちはその時の感情に"限りなく近い単語"を都度セレクトしてるだけにすぎないんだと思います。3泊4日の修学旅行の「たのしかったです。」と、地域の大声大会の「たのしかったです。」が同じ感情なわけないんですから。

語彙および文章力は高めたいです。高めたいのは大前提として、無理に感情を言語化しなくていいんじゃないかな、と、文章のプロが作った存在ではない者として言いたいんです。

「どうしてそれをやろうと思ったんですか?」「どうして将来これになりたいんですか?」と、自分が取った行動に対して明確なストーリーを求めてくる層は一定数います。けど、僕らは小説の登場人物ではありません。

もちろんTPOにもよりますが、「なんとなくやりたかったから」でいいんじゃないかなあ、なんて、なんとなく、思います。


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