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不機嫌な秋の終わり

死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほた)のかはづ天(てん)に聞(きこ)ゆる                          『赤光』

のど赤き玄(つば)鳥(くらめ)ふたつ屋(は)梁(り)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり

 私が齋藤茂吉という歌人を知ったのは、中学生のとき。国語の授業で、このあまりにも有名な二首を題材とした授業を受けた時である。ここまではよくある話だと思うのだが、この「授業」は「よくある」それとはかけ離れていた、と今でも思う。それは、実に数時間に渡って、この二首について徹底して考える授業だった。そのために、友人たちといっしょに齋藤茂吉の生涯やその仕事について調べたし、「死にたまふ母」の一連も読んだ。もちろん、難しくてちんぷんかんぷんな歌がほとんどだったし、齋藤茂吉の仕事が近現代の短歌にとってどれほど大きなものであるのか、まだまだ理解できていなかったのだけれど。
 この授業をしてくださったS先生の国語の授業が毎回めっぽう面白かったこと、卒業式には私たち教え子の一人ひとりに様々な詩歌や小説のなかからぴったりの一節を選んで短冊に書いてくださったことは、実はずっと以前にもエッセイに書いたことがある(ちなみに私に送られたのは、啄木の「空に吸はれし十五の心」だった)。
 茂吉のたった二首の歌について、生意気盛りの中学生が真剣に話し合い、調べ、それぞれの個性が十二分に発揮された鑑賞文を書くという授業。――今でも「死にたまふ母」の一連を読むと、夜空から「遠田のかはづ」の鳴き声が響いてくるような気がするし、「屋梁にゐ」る「玄鳥」たちの赤い「のど」だけではなく、つぶらな瞳まで、ありありと思い浮かぶ。あのS先生の授業で得たこれらの歌のイメージは、歌をつくるようになった今でもほとんど変わらない。読み返すたびにそのことに気づいて、今も驚く。
 私は今福島市内の学習塾で小中学生に国語を教えているけれど、学習塾では当然そこまでの授業はできない。分厚い受験対策用のテキストのなかで、当然「詩歌の鑑賞」の問題に何度も登場する茂吉の歌をせかせかと解説しながら、いつも悔しい思いをする。


 さて、私が上山の齋藤茂吉記念館に初めて訪れたのは、そんな国語の授業を毎日受けていた中学三年生のときだ。高校受験を前に家族で高畠町の亀岡文珠に出かけ、合格祈願をした後で足を延ばしたのである。
国語の授業は大好きだったけれど、残念ながら成績優秀だったわけではない。受験目前なのにずっと成績が安定せず、模試のたびに結果を見て一喜一憂して疲れていた私は、文珠さまに手を合わせてみても不安になるだけで、まったく気が晴れなかった。
 ここからならたいして遠くないから、齋藤茂吉記念館にも行ってみるか、と言ったのは、車を運転していた父である。私が茂吉の授業について家でも興奮気味話していたのを、父もまた覚えていたのだった。後部座席で不機嫌なまま度のきつい眼鏡のレンズを拭いていた私は、不機嫌なまま、うん行く、とだけ答えた。
 山が、燃えるようだった。秋の終わりである。道路沿いの家々の軒先には、吊るしたばかりと思われる干し柿がずらりと並んでいた。古い木造の家に、その鮮やかな色がよく映える。きれいだな、と思った。そうしてたどり着いた茂吉記念館で、私はあの授業とはまた違う齋藤茂吉に、もう一度出会ったのだった。記念館を後にするときには、それまでの不機嫌がすっかりどこかに行ってしまっていた。将来、自分が短歌をつくるようになるとは夢にも思っていなかった頃の話である。


 あの秋の終わりから、もう三十年近くが経とうとしている。その間、茂吉記念館は何度かの改装工事を経たが、中学生だった当時の私が見た茂吉や北杜夫の自筆原稿、漱石や鴎外、アララギの歌人たちと交わされた葉書や書簡、愛用品の数々は、今も変わらずに展示されている。私はその後どうにか志望していた高校に合格し、大学生になり、そして歌をつくるようになった。
 中学生の時の国語の授業や、茂吉記念館を訪れた経験が歌をつくり始めた直接のきっかけか、というと、そうではない。短歌って面白いなあ、とは思ったけれど、自分でつくってみようとはまったく思わなかったのだから。そして今、自分の歌が茂吉の影響を受けているか、と考えると、そういうわけでもない、と思う。けれど、私が歌よみとして過ごしてきた日々を振り返るとき、あの秋の終わりの一日がいつも心のどこかにあったことは確かだ。
 あの時、父の運転する車の後部座席で、不機嫌に眼鏡のレンズを拭いていた私が、そのまま不貞腐れて「行かない」と答えていたら、今の私の歌は、人生は、どうなっていただろう。それはそれで、また面白いものになっていたかもしれないけれど。

          『六花 vol.4』 特集「詩歌と出会う」 2019年12月




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