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【随筆】退屈を巡る考察

人は退屈する。
退屈を埋めるように予定を入れるし、
動画を観る。そうするのは私に限ったことではないだろう。

余白は奪われる。
退屈は余白を許さない。
都市は暴力的なほど刺激的で、わたしたちを不感症にさせる。

東京まで電車で一本で出られる、
子育て世帯が住むまち。
安心と安全、適度な自然や充実したサービス、
心地よい暮らしを与えられたのに、
心に巣食う退屈は、完全には出ていかない。

生きていく限り、
それは退屈との闘いなのだろうか。
わたしたちは、退屈と共存していくことはできないのか。
ある一日。
私は退屈から逃れるように車を走らせた。
目的地は決めずに。
目的を決めるのは、退屈の思うつぼだ。
安易に決めた目的や消費行動、ジャンクな情報で
満足するのは簡単で動物的である。
知性を持って、その先へ行きたいと願う。
例年よりもうだるように暑い、
朝9時23分。
給油するスタンド、どこかへ向かう、はじまり。
時間は連続しているようで、
ラジオが音と言葉を運んでくる。
耳を澄ます。


退屈から逃れるために移動する、ガソリンは満タンで

出発。
ラジオから流れてきたのは、
Def Tech -Catch The Wave
気分が上がる。

オンショアでグジャグジャな時がある
オフショアで肩 頭な波もある
無風でドパーフェクトな日もあれば
ピーカンなのにフラットもあるのが
自然さ It's like 人生さ

[Catch The Wave]作詞:Def Tech 2006年

日常と非日常。トラブルと安全。ハレとケ。
グラデーション、波のような浮き沈みの中に
退屈、そして幸福は隠れている。

退屈は幸福の対義語だろうか。
いや、退屈は幸福を内包している。
はたまた退屈に絶望するか。
人生100年時代。
その長さにめまいがする。
瞬間は瞬間。非連続な私的出来事の中に過去があり、
残してこなかった膨大なアーカイブは
無意識の海で戯れる。


予報は雨だった。進路、ハレが先行する。

ラジオは偶発性があって好きだ。
耳から入ってくる言葉と音が、リズムを生み
運転している自分と同期してくる。
缶コーヒーで目を覚ます。
覚醒は世界との距離を変えていく。
スピードを上げてハイウェイに乗る。
目的地のないドライブ。
それ自体を楽しめないのは、退屈に対する、
いや人生に対する焦りなのか。
窓を開けると熱気が車内へ充満する。
諦めて窓を閉めてエアコンを入れる。
ラジオの声は遠くに、自らのひとりごと、考えや
思考の渦が。自己との対話がはじまる。
運転は次第に無意識下において、意識は勝手に動き出す。
何か有益なことを探し出そうとする。
身体は運転席に縛り付けられている。
制約の中で思考は巡りだす。
私を置き去りにして。


『退屈な景色』と名付けるのは、私の感受性が鈍っているからだろうか

茨城県に入った。
サービスエリアは、休憩所。
人生の休憩所は、現代ならイオンモールか。
消費と都市。購買行動、何もない。木々と田園風景はただそこにあった。
通り過ぎる対象として、覚えていない風景の断片を記録する。


同じ方向をむいて休憩する車たち、背後には空がひたすらに青いのに

一方通行の人生に、目的を持つことは
ある人にとっては一種の強迫観念になりうるのかもしれない。
意味を求めることは無意味さに対する寛容さを失くしていくことなのかもしれないと自戒も込めてメモしておく。
ただ食べて寝て、セックスをする。
動物的な行為だけで三大欲求を満たせば、
退屈は消えるか。
時間はただ有限で、変化していく。
万物は変化している。
休憩すると、空を眺めていると、
変化がよくわかる。流れている、流れていく。


記号、ブランド、イメージ、緑、カルチャー

ロードサイドに並ぶチェーン店の功罪は、
わたしたちに対する退屈の助長だ。
均一的な街並みがわたしたちから思考を奪い、
想像力を奪い、受動的にしている。
つくりあげられたしあわせのロードマップは
多様なんだろうか。
古来の文化は暴力的に壊されて、
どこの道もまちもだいたい同じだ。
しあわせは人それぞれ。
接客、マニュアル化で整備していく。
コーヒーの味は原産地、年々違って、それでいい。


まぶしさに目がくらむ、曲線美とバラエティに富んだカジュアルな食。フードコートは賑わう

フードコートの人だかりを横目に見ながら、先を行くことにした。
消費の中にしか時間を埋めることができなくなってきている、自分自身に苛立ってきた。
面白いものを探している。何が面白いのかわからぬままに。
欲しいものを探している。何が欲しいのかわからぬままに。


雨は降らないけれど湿度はまとわりついてレンズを曇らせた


ひょっとすると先に降っていたのか、雨の跡を確認する

思考が【現在】を離れる時、
不安や心配が入り込んでくる。
過去や未来は想像でしかない。
現象が起こる、今にフォーカスをあてることは
とても禅的なマインドで、
心をととのえる作業であろう。

退屈の場合はどうだ。
現象が退屈である場合、
心が退屈しているのだから、
問題は心にあるのではないだろうか。

世界は常にそこにあって
流れているのに。
美しいと、感じるときもあれば
惰性のように日めくりしていく時間もある。

美しい風景を切り取る、写真にして。
美しささえも、退屈からの逃避だった。
なぜそこまで退屈から私は逃げるのか。
そうなのだ。私は退屈が怖いのだ。
日常に、私自身に、私は退屈してしまうことに
何よりも恐怖している。


24h365days腹が満たされる令和時代を生かされて

新しいものや刺激は短絡的だが、
退屈に満足を与える。
ハリウッド的映画は刺激だし、
東京、大都市は様々な誘惑と広告、刺激だ。
SNSやネットを開けば、刺激的な言葉ほど多くの反応を得られる。
世界は刺激に満ちていて、無意識で疲れたわたしたちは
より受動的になっていく。
当たり前に24h365daysごはんを食べられる、
空腹を満たす。
ネットを開けば、動画を観れば、
ジャンクな情報でも、頭を、時間を満たすことができる。

孤独は退屈との対峙であった。


棚に陳列されている時は膨大な商品のただひとつだったのに、
写真に切り取った、大きなおむすび昆布とツナマヨネーズ・たまご本来の味わいたまごサンドは、
先ほどより美味そうにみえて。個だった。

観葉植物も考えてみれば
変な話だ。

自然の植物がわんさかある中では微々たる一つ。

それを切り取って(分けてもらって)持って帰ったとしよう。
家に飾れば、圧倒的に個だ。

人間もそうか。七十億で考えたら微々たる一人。
でもこうして、思考すれば、圧倒的に個になる。

ミクロとマクロを思考が柔軟に行き来して、
ミクロに戻ってきたときに
おにぎりとサンドイッチを頬張った。

腹は満たされた。
不思議なことに、退屈も満ちた。
つまり、
腹が満たされると、退屈もそこにやってきていた。

腹が満たされた今、
やるべきことは他にないように思えた。
それくらい、おにぎりとサンドイッチは
私から思考を奪った。いっそもう帰ってしまおうか。
退屈を巡る考察なんてどうでもいいだろう。
人生は退屈について考えているほど暇ではないのだ。
そもそも、限りある休日を使ってわざわざ退屈について考えていることが私にとって必要なことなのか。もっと他にやるべきことはあるんじゃないだろうか。自室の部屋の掃除もしたいし、山積みになっている本も読んでいきたい。録画されているドラマ、家族の時間。書きかけの小説。
幸い、ハイウェイは一方通行で、私は先に進むしかなかった。


無造作にフィードいいね100個つける退屈と僕

雨雲が追いかけてくるファインダー越しフードコートやり過ごす群衆

メモしていた言葉。
無意識に何か残そうと、退屈から逃れるため
私は生産的になろうとしていた。

ナビを見る。道は分岐点を示す、左に進めば牛久。
牛久・・大仏をみて、アウトレットに行く。充分退屈的なコースだった。
いやいやと首を振る。だらっとしたごく普通の休日のプランだ。
ここまでの思考、基本的な思考のルーティンから先へ行きたい。
直進する車。左手に筑波山が望める。
筑波山を登るのはどうだ。足元はサンダルで来てしまったが、ロープウェイで行けるはずだ。
いやいやと首を振る。
安易に目的を作ろうとしている。雲行きも気になった。午後から雨が降りそうだった。

結局のところ、
私は退屈しきっていなかったのだ。
退屈が怖くて、
安易に目的を作った。
目的のない偶発性を。
楽しめるだけの無邪気さ。
こどもへの回帰。
こどもの頃、退屈にどう対処していたっけ。
新しいことがいっぱいだから退屈ってなかったのかな。
だとすれば大人の日常は退屈だらけか。
同じような日々に、自分だけの小さな変化を加える、
一つの方法かもしれない。
つまらない=退屈、と感じていたかもしれない。
つまらない授業、つまらない宿題、つまらない出来事。
大人になった今なら、つまらない事柄から距離をとることができる。
つまらないテレビは見なければいいし、
つまらない仕事はできるならしなければいい。
つまらない人間関係も、できるなら離れてしまえばいい。
交際範囲が限定されているこどもの時よりはずっと自由だろう。
自由意志を持って決められることの多さ。

苦しい時があるから笑顔になれる、と歌ったDef Techのように、
こども時代に無数のつまらないを浴びて育つことは
何が面白いか、つまらないかの個性を育むことにつながるのではないか。
出来事の面白さ、つまらなさの判断は主観だ。
知識や経験も関与している。


忙しく働く頭。だけど思考の枠組みは決められていて
その癖に抗うよう、道の先へ走り続けた。
────石岡市。
立ち寄ったことのない、ゆかりのない土地だった。
ここにしよう。
私はハイウェイを降りるために
左へウインカーを出す。


茨城県石岡市に来た


東京方面には行けません。東京は私の欲望を刺激する。雲が空を覆う。

見事なまでに退屈だった。
観光地にでも寄ればいい。17時に帰らないといけない。
保育園のお迎えがあるのだ。現実、リミットは迫ってきている。


夏休みの午後感、退屈で怠惰で無駄に消費する時空

ここから二十数キロの道は苦痛であった。
つくばを越えたあたりからBAY FMも聞こえなくなっていた。
代わりに流れるのは道路やまちの音だ。それらはBGMとして退屈だった。
石岡市、石岡市。頭が回転する。
確かサウナがあったんじゃないか。
サウナは私にとって、よく利用するリフレッシュ方法であり、行ったことのないサウナに訪れるのは私の楽しみでもあった。

検索は、便利で
スマホの存在はもしかしたら本来の『旅』をなくしてしまったのかもしれない。道に迷うことはなくなった。口コミやレビューで店を訪れる前に、すでに視覚は店を《知っている》。情報を確認する体験。
するするとスマホに手を伸ばすと、石岡健康センターがヒットする。
あとは向かえばいいだけだった。
ウェルビーイングは私にとって興味のある範囲で、リラクゼーションは生業だ。行かない理由はなさそうだった。


退屈は私を水戸市まで運んだ

しかし、行かなかった。

退屈とウェルビーイングの相性は実は良い。

今回得た知見の一つだ。

人生100年時代、健康寿命を延ばすために
ウェルビーイングに生きるために
サウナへ行く。リラクゼーションに行く。
心身を整え、ストレスからの解放を促す。
すばらしいことである。

退屈を埋めるには
何よりもおすすめだろう。

しかし、

ウェルビーイングに生きること自体が果たして人生の目的になるのだろうか

いや、もちろんそういう方もいらっしゃるだろう。
何を大げさな、そういう意見もあるかもしれない。
しかし自分にとってウェルビーイングに生きることは
人生のより良い楽しみを享受するための一つの手段であって、
それ自体が目的にならない。そんな気がした。

退屈を受け止めたまま、下道をとにかく走った。
国道6号線だった。道は水戸に続いていた。

ウェルビーイングは、
退屈の対処療法だと思う。
退屈という病気に対するクスリとして
効果的な処方だ。
では、退屈という病気にならないためにどうすればいいのか。

からだを動かす。

退屈と身体性。

走る、掃除する、料理をする。
からだが先行して動くことで退屈にならない。
ある種、健康的な状態でいられはしないだろうか。

水戸へ。

目的はない。
外の世界へ。半端に閉じこもるな、と自分自身が言うのが聞こえた。

水戸。何があるのか、調べたらはやい。

これだけ情報で疲弊していたはずなのに、
また情報を求めているのか。
検索するのは例えればジャンクなファストフードだった。

いま本当に必要なのは、
情報を食べないことなんじゃないのか。

縄文人に退屈はあったのか。24h食物が手に入ることで狩りや自給をしなくても良い時代。令和。咀嚼力。腸と脳の相関。身体性を取り戻すことが、世界に対する感受性をも取り戻すことにならないだろうか。
身体性を開いていくことが、世界を開かないだろうか。
食べ過ぎない、節制する。大食いは罪だといった古代の賢者たちは見事に言い当てていないか。

アクセルとブレーキは両方踏めない。
忙しさから離れたい気持ちと忙しさで埋めようとしている気持ちが
自分の中に共存している。
せっかくの余暇を行動や情報で隙間なく埋めることに慣れてしまっている。

下道を、ゆっくり行くことが苦手だということに気付いた。
速く行きたいのだ。時間は限られていて、もったいない。
先を見ているから瞬間を楽しめなくなる。
退屈な道をゆっくり行く、断続的に赤信号で止まる。


水戸駅の近くに車を停めた。
歩き出す、雨は奇跡的に降らなかったが、暑さに汗が噴き出した。
歩くことは、ゆっくり行くことだった。
運転している時に感じていた焦燥感は消えていた。
歩くほうが身体はずっと自由だ。
好きなときに止まる。写真を撮る。
スマホやインターネット、ツールに急かされるなよ。
文明や時代に合わせることも必要かもしれないが、
歩いている限りは不要だ。
歩けてさえいればいい。


車をおりて歩く。光が頭上から降ってくる。

退屈な地方都市の寂れた商店街。店に入るわけでもなく、
あてもなく歩く。とても何も起こらなそうな午後。
商店街を抜けた先に立派な神社が鎮座していた。
水戸東照宮。
賽銭をいれて手を合わす。


水戸東照宮

────ゆっくり行くことは、遊びながら行くこと。

確かな声が、聴こえた。

私は反芻する。

ゆっくり行くことは、遊びながら行くこと。

人生をゆっくり行くことが遊びながら行くこととすると、
趣味を持つってこととはちょっと違う気がする。
遊びと趣味は何が違うんだろう。
前述したように無邪気さ、こども的なのが
遊びではなかろうか。
趣味はもっと大人的な要素を含んでいる気がする。
そう仮定するとやはり知識、頭から離れないといけない。
頭を空にして身体を動かす(そうそれは例えば散歩である!)
ことは無邪気で、結果瞬間を楽しめている。
時間の経過を想う時、こどもには今ここ、しかない。

瞬間を遊ぶように生きていくことが、
人生を結果的にゆっくり行くことになっていくのは、
重要な示唆を含んでいる気がしてならないのだ。

ゆとりがないことを、
遊びがないともいう。

遊びある道は、ゆとりある道なのだ。


ゆとりある道を、遊びある道を、歩け。


夏休み、自由研究。
最終日に急いでやったりやらなかったり。
当時は面白さがわからなかった。
大人になるということは、
どういうことかと今聞かれたら真っ先に答えられるのは
物事の味わいがわかるようになること、だ。
低刺激でも良い。いや、刺激の高低ではなく
物事の奥深さ、奥に続く道。味わいは隠れている。
水戸へつながっていた道は
まさしく私に退屈を味わわせてくれた。
時間がくる。いよいよ帰路につく。


駐車場の隣に水戸黄門公生誕の地が。今回の学びに感謝。

終わりに。

退屈に関する考察や名言は多く残されているけど、
お気に入りの言葉をひとつ、
クレヨンしんちゃんから。

”お前が生まれてからは退屈してねぇよ”────野原ひろし(クレヨンしんちゃん)しんのすけに対しての台詞

クレヨンしんちゃん 原作:臼井儀人


笠間焼の艶感、民藝こそ日常の美
ささやかなところに美を見出す価値観、
味わいの前に退屈は入り込む隙もない

お土産を買う行為は、
誰かを想う行為だ。
自己との対話から離れ、対象は内から外へと向かっていく。
家族との時間、
退屈を感じることがないのは
とても幸せなことである。
それはきっと、あたりまえではないから
お土産と感謝を。
独りの時間はひとりを味わい、
家族の時間はかぞくを味わおう。

時間はまだ残されている。

退屈は、
もう怖くない。

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