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他人の惚気話が嫌いだった。(からの大どんでん返しの話)

昔…「自分にも何かがそろそろ起こるのでは」と思い始めた中学3年のときから、社会人27歳春ごろまで他人の惚気話を聞くのが嫌いだった。
自分に起こらないこと、もしかするとこれから一生起こらないかもしれないことを私より先に手に入れた子の話なんて冷静に聞いていられなかった。なんだったら別れればいいと中学生の私は意地悪を思った。

結局、学生時代・社会人になってからと何人かお付き合いして「なんだ、私にも誰かと付き合うという巡り合わせはあったのか。」と中学生の頃よりは冷静になったけれども
今度は結婚というワードをよく耳にするようになり、視点も新たに25歳から27歳までは一層他人の惚気話が嫌いになった。

今思えば当時、結婚という話も多少しながら付き合っていた人と別れたばかりで、
また、「私には縁がないかもしれない話」を聞くのが辛かったのだと思う。別れろとまでは思わなくなったけど、私に知らせず勝手にしててくれ!と顔に出ていたかもしれない。

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でも最近になって気がつくと人の惚気を聞くのがものすごく好きな自分がいる。
SNSで流れてくる同級生の報告に嬉しくなったり、一回りも二回りも先輩による幸せエピソードは格別だし、後輩の話も本気で喜んで聞いている。自分でも不思議、なんで?

「人と比べて自分を不幸にしない」とはどういことなんだろう。

他人が幸せな分、私の幸せが減るなんてことはない。
幸運や幸せ、地球上に母数は決まってない。
幸運だけの人、不運だけの人はいない。今が上手くいっていても、この先には困難もあるだろう。
逆も然り。そして幸運も不運もタイミングは全員バラバラである。

当たり前とわかるようなことでも、自分の人生を楽観的に信じるのは難しい。

他人の幸せを羨んで僻むということは、今の自分を否定しつつこれから先の自分へも期待してないということで
それ自分にすごく失礼と思うようになった。

あとは「結婚がゴールじゃない」、「結婚してから50年一緒にいるってどういうことか?」本当に考えたり、向き合うことはこれまでなかったし、「恋愛や結婚=相手から選ばれること」でもなかった。
何も知らないわりに「交際や結婚=100%幸せ」と信じていた。(実際、私の両親はとても幸せそうだからである)
でも悲しいので認めたくないけど、そうとも限らない現実があり、であれば今幸せだと思えることはただただ素晴らしいなと思った。


もうひとつ発見したことがある。私はもともと傷つきやすいので感受性が豊かですね、とよく言われてきたし自分でもその自覚はあったのだけど、私は中~高程度のHSP(Highly Sensitive Person)だ。

恋愛や幸運、成功、不運、悲劇、裏切りといったキーワードの浮かぶ出来事
たとえば自分とは全く関係がない人についてでも不倫会見や浮気についてなんか見聞きすると絶望的な気持ちになるし、当人かと思うほど泣いて悲しみ、ひどいと数日引きずる。

反対に、結婚報告や交際宣言などを見聞きしたときは明るい気分になったりして精神的に辛くはならない。つまり、ハッピーな話を聞いている方が悲しくないし、悲しい話を聞くと死ぬほど悲しむことになるのだから
幸せな話、惚気話なんて本来、最高に心が安定するものだった。

つまり人にはそれぞれのタイミングがあり
誰かと同じような幸せを、同じ時期に自分が持っている必要はなく
「恋人やパートナーがいるから幸せ」なんて方程式はない。

それでも悲しい出来事に精神的ダメージをくらいやすい私にとって
世界がハッピーな話題であふれた方が生きるのも楽なようで、だから今はむしろ積極的に話を聞きたい自分がいる。

幸せを幸せなまま受け取れたらいい。

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