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あなたは本当の余暇を知っているか?「アダム・ビード」

上下二段組。本の厚みは三センチある。細かい文字がびっちりとページを埋め尽くす。ぼくはこういう本が好きだ。読んでも読んでも終わらない。何日も何週間もかかって、相当な体力を消耗するような本が終わったときの読了感というのは何物にも代えがたいものがある。
 

読み応えありすぎ


作者のジョージ・エリオットは実は女性である。本が出版されたのは1858年。当時は女が本を書くなんてケシカランという風潮の世の中だった。だから彼女は男の名前で作家活動を行ったのであるが、ジョージ・エリオットというのは不倫相手の名前というのだからなんともすごい。
 
イギリスの田舎の村にすむ好青年アダム・ビードの愛と人生の物語であるが、この本の真骨頂は私たちに本当の余暇とはなにかを教えてくれることにつきる。
 
1858年の時点で、とくに都市部に暮らす人々は余暇の過ごし方を忘れているというのだから2024年に生きる我々など余暇とはなんですかバケーションとはどういうことですかという次元にいると言ってもいい。
 
休みの日が余暇かと言えばそれはこころから休んでいないかぎりNOである。

こういう描写がある。
日曜日、農家の家族が朝教会へいく。教会が済むと帰り道をぶらりぶらりと歩いていく。季節は春である。道端の花が咲いている。日差しが地面を温めて湯気とともに地中に閉じ込められていた様々な匂いがあたりに充満して嗅覚にも春の訪れを告げる。家族はおしゃべりをしたり花を眺めたりしながらゆっくりと家路についていく。時計などない。太陽の傾きだけが一日の今を伝えている。彼らは自宅につくと昼食の用意をしてゆっくりと食事をとるのだ。
 
こうした生活そのものが余暇であり、過ごし方である。実際どう書いてあるのかは読んでもらわないと仕方がないが、ぼくはこの本物の余暇の過ごし方に出会って強い衝撃を受けたのである。
 
便利さはひとを幸福にしない。それは多くの昔書かれた本が証明していることだ。ではなぜ人間はひたすら便利さだけを追求し続けるのか。アダム・ビードの時代さえついに蒸気機関車が登場し、人々は余暇の過ごし方を忘れようとしていた。幸福論のアランは同じ時代に生きたひとで、新型列車が15分短縮した時間を人々は駅で無為に潰していると皮肉を言っている。
 
新しい便利なものができるたびにこの感覚は人々のこころにつきまとってきたものであるが、どこかでそれさえも忘れてしまったのが現代人なのだろう。古典を読むということは、忘れてはいけないことをもう一度思い出す行為でもある。

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