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冷凍保存して、溶かして

ここ金土日は、不思議と、大学時代を思い出さなければならないできごとばかりが重なった。

まず金曜日、Netflixで何を見ようということになり、『横道世之介』という高良健吾さん主演の映画を再生した。

なんでそのチョイスなのかというと、先日実家に帰った際に母と兄におすすめの映画を尋ねた。するとお洒落な洋画を沢山教えてくれてどれも面白そうだったのだけど、なんだか私はもっと軽いものが見たい。

夕食を食べながら、二十分くらい軽-く見られるもの。彼もいっしょに見るので、誰もが面白いと思える、わかりやすくて飽きないもの、が良かった。で、邦画でもいいよ、寧ろアニメでもいいよ、と言っていると、母が言ったのは、『横道世之介』。これは以前にも何度か母におすすめされたのだけど、DVDのジャケットなのか映画のポスターなのかよくわからないグーグルで検索したビジュアルは、ザ・日本のほのぼのとした映画、という感じで、まあ、機会があればいつか…と見るのを放棄していた。それでも母は、再度おすすめし、日本の映画で一番面白いんじゃない。とまで言う。そこまで言われると、ちょっと見てみようかなという気になり、金曜日の夜にみるものとして、選ばれたのだった。

映画が始まると、淡々としたテンションなのに、昭和の情緒、みずみずしい空気感が漂ってきてすぐに魅了された。高良健吾さんの演技が驚くほどに上手で、憎めなくて可愛い世之介のキャラクターを、表情や声の出し方、動作の、ちょっとしたところで完全に演じ切っていた。やっぱり、面白い映画は最初から面白いよね!撮り方とか世界観がもう、違うのよね!と言いながら引き続き見ていると、これは世之介が上京して大学生になるところから物語は始まっているのだった。

入学式だとか授業中の感じ、サークルの新歓、大学にいる先輩の雰囲気などが、ああ、こんな感じだったなと、じわり、映像から肌に染み込んでいくのだった。

それで私の肌から身体中に、懐かしい大学特有のあの感じは駆け巡り、次の日、私は、自分の余年間通った大学に来てしまったのだった。

というのは、ちょっと話を盛っていて、本当は前からその土曜日は大学に行こうと彼を誘っていたのだった。なので、世之介を見て、次の日に大学に行く、というのは偶然の流れだった。

大学は卒業してからも二年に一度ほど遊びに行っていて、うちからはドアトゥードアで二時間弱もかかるのだけれど、私は大学に行くことが好きだった。

大学に行って、食堂でランチを食べ、雑誌コーナーのソファに座って沢山の雑誌を読み、いくつも校舎がある広い大学内を散歩し、大学の裏にある緑地の中をハイキング!(あんなに本格的に緑に囲まれることのできる場所を私は近場でここくらいしか知らない)、そして大学のすぐ近くの美術館に行く、というのがいつものコースで、この日もそうだった。

大学時代は一切友達とつるんでランチを食べたり一緒に授業をとったりということをしなかったので、私にとって大学は、ひとりでふらりと行って、気の向くままに自由に授業を受けて小説を書いて、図書館で本を読んだり映画を見たり、緑地で溢れる緑に浸れる場所、という印象の場所になっているのである。

だから、卒業してからも何度も気軽に(例え一人でも)遊びに行きたい、落ち着く場所なのである。

世之介見た次の日に大学に行けるなんて、いつもより楽しめる気がする、と思いながら校舎を散歩し学食を食べて雑誌コーナーで雑誌を読み、緑地と美術館。青空が広がっていて、秋の湿気のない空気は凛として気持ちよく、大学に行くって本当に良い!私にとって大学は色んな学問と出会えた、初めて知見が広がった場所だから、ここに来るとまた色々頑張ろうと言う気力が足の裏から這い上がってくる。

次の日は、大学の友人の結婚式で、ずっと会っていなかった大学時代の友人が何人も参列していた。だいたい十年ぶりくらいになる人もいるのに、みんな姿形はあまり変わっていないけれど、もちろん環境の変化や経験の増加で、着実に十年間、過ごしてきた重みは抱えているのであった。

『横道世之介』も、大学時代と、その時世之介と接していた人たちの大人になった現在が交差している映画で、登場人物みんな、着実に歳を重ねて魅力的に生きていた。

私も大学の頃を振り返ってみると、内面は別人かと思う程に変わっている。振り返ってみれば、大学時代は、めちゃくちゃだった。人として何も定まっていなかった。
色んな人と関わって経験をして、良いことも悪いことも感じて考えて、ハンバーグの作り途中のようにぐちゃぐちゃに混ぜて練られて、その途中。まだ形はない状態、という感じ。
大学時代は何故かそれで許されたし、それを悪いことだと言う人も誰もいなかった。

私の細胞は日々更新されて、大学時代と同じ身体の組織はどこにもないはず。髪は全て生え変わっているし、肌もターンオーバーで全て入れ替わってる。
考え方も更新されて、あの頃とは違うし、私が大学のときと同じ一人の人間だという証拠って、どこにあるのだろう、とよく思う。
考えてみればそれは、自分の脳の記憶、周りの人の記憶だけにしかないのかもしれない。

自分の記憶も周囲の人の記憶も一晩眠ったらいきなり変わっているかもしれない。
私は朝起きたら全く違う誰かの記憶を引き継いで、違う人になっているかもしれない、と小学校の頃、よく考えていた。覚えていないだけで、私は昨日は別の誰かだったのかもしれない、と。

自分がどういう人生を送ってきて、どういう人だったか、どういう考えを持って生きていたか。全てを忘れて、その時その時の今しか生きていないのなら、私は少し恐くなる。点しかない上に乗って、先も後ろもないような孤独感。

記憶があればあるほど、その不安は消えるので、色んなことを覚えていたい。
どんな人と関わって、どんなことを誰が話していて、自分は何が好きだったか。どんな考え方をしていたか、空の色はどんなだったか、その時の匂い、空気、雰囲気、気温、家族が笑ってくれたこと、友達が泣いてくれたこと、すれ違った知らない人の雰囲気、全部全部覚えていよう。

『横道世之介』を今、全て見終えて、涙がだらだらと溢れ出た。

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