ふるさとの海
いつもはフザけた文章でnoteに綴っていますが、今回は真面目ぶって書いています。
その昔、寺院関係の季刊誌で書かせていただいた文章です。
調べてみたら、H28年に書いてた!時の流れの速さにふるえます。
全4回あります~
第1弾「ふるさとの海」
私は、瀬戸内に浮かぶ島の自坊(実家の寺)で僧侶をさせていただきながら、夫と共に手作りジャム専門店を起業し、副店主をしています。
また、シンガーソングライターとして音楽活動もしており、二児の母親でもあります。
今では故郷のこの島で充実した日々を送っていますが、私のここまでの道のりはまっすぐなものではありませんでした。
瀬戸内の美しい自然に囲まれて育ったにも関わらず、成長するにつれ、お寺からも田舎からも離れたくて、高校卒業と同時に「もう二度と島で暮らすことはないだろう」と都会へ飛び出しました。
でも、思い切り肩に力を入れていたあの頃は、一生懸命やっているのに、いろんなことが上手くいっていませんでした。
そんな私の転機は結婚後に訪れました。
会社員の夫が、新婚旅行先で偶然出会ったジャム屋に感銘を受け、脱サラをして起業を決めてしまったのです。
さらに、みかん栽培が盛んなだけでなく、他の果物も豊富にある私の故郷がその舞台となり、私は必然的に寺の仕事にも携わるようになったのです。
あんなに帰りたくないと思っていたはずなのに、不思議なことに、私はまずは目の前に与えられたことをやってみようと、自然に思えました。
そして、肩の力を抜き自然の流れに身を任せて動いてみたら、一番の夢だった音楽など、すべてのことが前に進み始めました。
私のお寺の裏はすぐ海で、私は子供の頃から海にただプカーンと浮いているのが好きでした。
去年の夏も子供たちと一緒に海に入り、仰向けになって浮かびながら、私は体中であることを感じていました。
「ああ、他力ってこういうことなのかな」
自分の力で浮こうとすると沈んでしまう。けれど全身の力を抜き海に身を任せると、体は浮かびます。
何もできないくせにプライドばかり高く、一人で生きてるようなつもりでいた若い頃の私は、まさに海に沈んでいくような姿だったのかもしれません。
ふるさとはずっとここにあったのに。
反発してばかりいた私も、どんな私も、どんな時も、包み込んで待っていてくれたのだとやっと気づくことができたのでした。
平成28年3月1日発行「季刊せいてん第114号」より
「他力について」 ウッカリ坊主解説
他力という言葉は、現代では「他人任せなマイナスなイメージ」で捉えられることが多いかもしれません。
ですが元々は仏教のことば。親鸞聖人という方が最初に使われた言葉です。
「自力」という言葉に対しての「他力」の本来の意味は
「阿弥陀さまの力」
という意味です。
まず自力とは、自分で一生懸命修行して勉強して心身ともに精進して欲を一切捨てて悟りを開く。自分の力で仏になる。ということ。
どうでしょうか?
できそうですか?
ワタシには無理ゲー。
めっっっっっっっっっっっちゃ勉強して修行して自力で仏になる!って頑張った親鸞聖人でも、
それは無理。というか、違う。と気づかれた。
そんなどうしようもない私だからこそ、
阿弥陀さまは、ほっとけないんだって気づかれた。
煩悩だらけ、欲まみれ。反省してもまた間違えて、泣いて、転んで、でもまた何とか立ち上がって生きていく。でもまた愚痴る。妬む。。。
人間だもの。
自分で頑張って努力してできることは、もちろんたくさんあるけれど、
仏になるなんて自分の力じゃ到底できそうにない。
だからそこは、私にまかせなさい。安心してまかせていいよ。
って言ってくれたのが、
阿弥陀さま。
それを他力(阿弥陀力)って言うんだそうな。
阿弥陀力にしといたらよかったのに!って、私は思うけど、もしかしたら親鸞聖人が生きてた鎌倉時代には、自力って言葉が一般的に皆知ってるメジャーな言葉すぎて、自力⇔他力の方が分かりやすく、理解しやすかったのかもしれない。でも今じゃちょっと誤解されやすい。ってかもう、自分では努力せずに他人まかせって意味でしかなくなってるやんね。
がむしゃらに全てを自分の努力だけで解決しようとしても、なんか上手くいかないことってないすか?私はあります。
阿弥陀さま、ありがと!おかませさせていただきます!!
てか、阿弥陀さまだけじゃないよね。
周りの人、そしてもう亡くなって仏さまになったおじいちゃんおばあちゃん、近所のおばちゃん、みんな、助けてくれて、こんな私を大切にしてくれてありがとう!
って感謝の気持ちで口にするのがお念仏『南無阿弥陀仏』
で、
さっきのエッセイの中で私が使ってる他力って言葉は、こういう意味で使ってるよ!って話でした~
また、たまーに、真面目な坊さんのフリして書きます(*'▽')
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