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論理派なの?感覚派なの?どっちが好きなの?

私のnoteの読者は同世代かそれ以上が多くを占めていると思うので、古かろうがなんだろうが、松浦亜弥のこのくだりは定期的に使っていきます。

でも、あややのファンとかではありません。

そんなことはどうでもいいんスけど、みなさんどっち?

論理で生きてる?感覚で生きてる?

そして、私はどっちだと思う?

考えすぎ感じすぎたことをすべてここに吐き出すかのような言語化大好きマンですから当然、論理派。

と言いたいところなんですけど、たぶん私の根っこは完全に感覚だと思うんです。

そんなことあるかいと思われそうだし、私も変な感じがするんですけど、自分の思考回路を掘り起こせば掘り起こすほど、全然論理的じゃないなとも思う。

誰かと何かを議論してても、最終的には「んんん~~~分かんないけどだってこっちが良さそうだもん!」とか「いろいろ言ったけど何かこっちが好きなんだもん!」とベシッと投げたくなる。

結局、人生フィーリング🤟

みたいなギャルマインドが根底にはある。もしかして、全人類そんなもんなんかな。

でも、だとしたらなぜここまで言語化したがるのか、できるのか。そういう話なんですけど、それはただ単に、そのときの感覚、つまり直感や感情そのものを忘れたくないからなんですよね。

これは、誰しも一度どころか、何度も経験があると思うんですけど、あの、何かを思い出そうとしたのに、あとちょっとが出てこないヤツ。

何か検索したいことがあってスマホを手にしたのに、いざ手に取ったら、その瞬間にはもう忘れてて「あれに関連して気になったから…あれ系の話なはずなんだけど…んー…ん、ん、ん…」みたいなヤツ。

小さい子が不注意で手を離してしまって、スルスル空へ上っていこうとする風船を、あとちょっとのところで掴み損ねる感じのヤツ。

あるあるですよね。

でもさ、ここで思い出せないヤツら・・・はさ、形こそないけどかろうじて具体性はあるじゃないですか。

思い出せなかったのは、概念かもしれないし、モノかもしれないし、人かもしれないし、掴み損ねたのは風船のヒモ。「これです」とぴったり合致するものがある。そうじゃないものとの境界がはっきりしている。

一方で、よ。

感覚ときたらどうですか。
直感や感情ときたらどうですか。

なんか良さそう、なんかめっちゃ好き、なんかヤダ。

ヤツらときたら、みーんな、あいまい、抽象、漠然、不確か、おぼろげ。

「良さそう」とか「好き」と一口に言ってもいろいろあるじゃないですか。じんわり温かい気持ちになったからかもしれないし、心にぶっ刺さるアツいものがあったからかもしれない。初めて見た新鮮さにドキドキしたからかもしれない。

「ヤダ」だって一緒です。心がざわつくのかもしれないし、ずーんと悲しくなる、あるいはむしゃくしゃするからかもしれません。

こんなぼんやりしたもの、当然いつまでもそのまま覚えてられるわけではなく、そのときの感覚をまるっきり同じように思い出すってほぼ不可能じゃないですか。

「調べたかったのに忘れたこと」のような具体性もなく、何の輪郭もないんだから。

ただ、そんな抽象的な感覚、直感や感情も、やり方によっては具体的に落とし込める

その感覚はなぜ生まれたのか、どうやって膨らんだのか、理由や背景、経緯、自分の思考回路は具体的なことば、文字にできるから。

そういう「情報」をできる限り細かく書き残しておく。そのときの情景、そして脳内や脊髄を走った感覚を思い出せるくらい、事細かに。その感覚をもたらした「パーツ」を紐でしっかりくくりつけておく。

そうやって何かしら「文字」に残しておくだけで、思い出したい感覚の輪郭はちょっとだけくっきりする

それを変態的に子細にやろうとしているのが、私。
言語化フリークです。

この感覚、取りこぼしてたまるか、の精神で入社しワークしています、人生。

でも別にここまでびっちり書かなくても、オノマトペだけだっていいんです。じんわりとかざわざわとか、ドキドキとかむしゃくしゃとか。

たとえば、小さな子はよく擬態語で自分の感じたことを訴えますよね。

最初から「私、悲しくて涙があふれたの」とか「横腹のあたりが痛むの」なんてはっきり伝えれる子どもなんていません。

「エンエンしちゃった」とか「チクチクするの」とか可愛らしいことばで切実に訴えてきます。

そこから大人は想像力を働かせて、子どもの主張を汲み取ろうとする。

エンエンチクチクすら言わず、むすっとした顔で無言で抱きつかれても、可哀想だけど何も汲み取れません。(愛ゆえに汲み取れることもあるけどネ)(ちなみに幼少期の私はこのタイプでよく母を困らせたけどネ)

大人になった私たちの「直感や感情」も同じことです。

直感や感情が降ってきたときの感覚を、オノマトペとしてだけでも文字に残しておいてくれれば、未来の自分が振り返るときなんとか想像力を働かせれる。当時の感覚に近いものを思い出そうとしてくれる。

だから、とりあえずみんな書いちゃいなよ。

なんか悶々とする、あるいは逆に、なんかスカッとした。

そういう感覚を抱くたび、私は急いでスマホを取り出してnoteのアプリを開き、すっすっすっと数フリックして文字に変換します。(そして下書きだけがしぬほど溜まっていく)

どれだけガツンと感じたことでも、印象に残ったことでも、これは絶対忘れないと思ったものでも、いくら今後も活かせそうな教訓めいたことでも。

数日後には私たちの脳内、体内から、忍者のごとくドロンしているものなのです。

「なんかこういう感じのこと、前気づいたな」「あれーなんだったっけ」「思い出せないけど、こんな感じっしょ!」「てかまあ、もういいやー!」と鼻ほじくって終わり。

なんと、勿体ねぇ。

鮮明に思い出せたら、何度も何度も教訓になって助けてくれるかもしれないし、これからの生きづらさをぐんと減らしてくれるかもしれないのに。

せっかくの気づき、人生の教訓、そして感動。
しっかり胸に刻み続けようぜ👊

あらゆる感覚、感動を、なるべくそのままの形で、なるべくぜんぶ、覚えておきたい。瞬間冷凍しときたい

私が推し記事を、あんな狂った熱量で書くのはそういう理由からです。

「オチ、そこ?!」と思った方向けに、推し活という感情の最たる例をどうにか論理立てようとしたものの、1mmも進んでいない取り組みをそっと置いておきます。

はじめの一歩(#0からはじめたので正確には二歩)で止まってる。そろそろヨチヨチ歩きくらいしたほうがいい。

ま!これも下書きだけなら#5くらいまであるんだけどね!

サポートは言語化力を豊かにするための、推し活資金にさせていただきます💃🎤