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浅田次郎の「近代史」から戦争を思う


 戦後生まれだからこそ

「戦争」という現実

「戦争は知らない。だが、ゆえなく死んで行った何百万人もの兵隊と自分たちの間には、たしかな血脈があった。
ジャングルの中や船艙(ふなぐら)の底や、凍土の下に埋もれていった日本人を、外国人のように考えていた自分が、情けなくてならなかった」

浅田作品「帰郷」より

自らの自衛隊体験から、発想を飛ばしたファンタジー的ストーリーの中に、浅田氏の戦争に対する思いが表れています。

毎年、特に8月になると戦争の悲惨さや、原爆の実情などをメディアなどで再確認しつつも、現代を生きる私たちには「戦争」というものをどこか別の国、あるいは違う次元の話だと捉えがちです。

ウクライナでの戦争も未だに収束せず続行中なのですが、心のどこかで他所の国の出来事だと思えるのは、私たちが戦争のリアルを知らないからでしょう。

驚くことに、戦前戦中だけでなく戦後の6年もの間、日本が被った「原爆」の被害を報道することはアメリカのGHQに固く禁じられ、被災状況の発信ができず、国民でさえ真実を知らないままだったのです。
(NHK歴史探偵「消えた原爆ニュース」より)

自分たちがどれほどの被害を受けたか口を閉ざさなければならないという敗戦国・日本。
原爆など大した被害ではないと楽天的な報道をする勝戦国・アメリカ。

どんな場合においても歴史は勝者のものなのです。


1951年生まれの浅田氏は、厳しい検閲が解除された直後に生まれ、戦争経験者である両親や祖父母から直に惨状を伝え聞くことが出来た世代です。

リアルな体験を直伝され、そして自由な表現が許される時代の作家だからこそ、様々な形の戦争小説を描くことができました。


戦争を俯瞰する

戦争体験者である司馬遼太郎氏は、ついに戦争小説は書きませんでした。
その不条理さに人としての感情が先行し、現実を冷静に表現できなかったのでしょう。

司馬氏とは違い、浅田氏は実証された史実を直視した戦争小説を多数書かれています。

戦争未体験だからこそ、一方的な主観の感情的なものではなく、物事を客観的に捉えた上で心情を巧みに描写しているのです。

私はそれを読むことで、目の前にある「平和」は当たり前ではない事を思い知らされました。


芽生えた「死生観」から
反戦を訴える

戦争体験を過去のものにせず、戦争の理不尽さを描きながら、バックボーンには「反戦」が常に見えるのも浅田作品の特徴でしょう。

人は50、60と年を重ねるごとに「死」というものが現実味を帯び、リアルな「死生観」が湧き上がってきます。

40代以前と60代以降とではまるで違い、自分の中で「死生観」はどんどん形を変えていきます。

徐々に周りの人間の死を経験して、死はだんだん身近に迫ってくる中で、覚悟を持ちながら余生を生きるべきところを、戦争は各個人が思い描いた「死生観」まで粉々に吹き飛ばしてしまいます。

本来、約束された普遍的な「平穏な死」を他者の都合で奪われるのです。


同じ「死」でも、戦国時代は自分の欲のために自ら選んで死んでゆきました。
しかもそれを美徳とし、誰のためでもなく、自らの一族のための「大義名分」の上に戦い、その結果に「死」があったのです。

ところが、近代の戦争は全く違う。

軍人だけでなく、非戦闘員の国民までもが戦う事を強要されました。

そこには個人の意思などはなく、戦うためのための大義名分は一方的に押し付けられた国都合のものでした。


もちろん小説ですので細かいところはフィクションですが、私は様々な逸話から、実際には現代人の考えなど及ばないほどの惨状だったと思います。


人としての倫理を問う

軍人が政治的な権力を握っていた時代だっただけに、新興宗教のように、何も知らない市井の人々にまで歪んだ倫理観を植え付けられ教育されて、死んでいった若者たちを思うと胸が絞めつけられます。

南の孤島で餓死した者。
戦闘機ごと体当たりして玉砕した者。
船で移動中に突然爆撃された者。
非戦闘員なのに銃殺された者。

彼らに命を散らすだけの「大義名分」はあったのでしょうか?

きっと、人としての基本的な理念は現代人と何も変わらず、家族と過ごす平穏な生活が当たり前だったはずです。

誰も出征などしたくなかった。
そして誰も愛する者を送り出したくはなかった。

本人の意思とは関係なく、ただの戦闘要員として虫けら同然に命を散らしたのです。


私にも息子が二人います。
彼らが戦争に行かされると言うなら、海外逃亡だって企てます。
そんな理不尽な戦争に、断固として行かせたくない。

息子の命を軽く扱われるなど、考えただけで憤りを感じ、当時の人たちの心情を思うと、壮絶な精神的苦痛が見えてくるのです。

人が人でなくなるのがリアルな戦争であると、浅田氏の作品は根底から訴えてくるのです。


終戦記念日を前に戦争小説を読むことで、当時の人々の心情に寄り添い、「反戦」の意義を確認し、未来へ託すのは私たちの使命なのです。


 読了した作品の中から
 ピックアップ

もうかなり前、15年ほども前に読んだのですが、太平洋戦争こそが日本史の汚点だと思った最初の作品です。

序盤は話が見えないのですが、上巻の後半から話が繋がりだんぜんおもしろくなってきます。
終戦間近に海に沈んだ豪華客船についての謎やそれを取り巻く人々の様々な思いが交錯しながら展開してきます。

阿波丸事件を原案として、浅田氏お得意の過去と現代の両視点から、物語は進行してゆく構成は素晴らしい。

不幸なのは命を落とした人だけではなく、生き残れた人も一生涯にわたり十字架を背負うことになるのだと痛感した作品です。

 


敗戦濃厚の空気がすでに漂っているところから話が始まります。
後半は悲しい結末であると予想できてしまい、憂鬱な気持ちになり、いったん本を閉じた記憶があります。

最終的には北方の北千島列島が舞台ですが、それまでに登場する人物たちは、なんの変哲もない一般人で、それぞれの平凡で当たり前の人生に触れながら物語は進みます。

開戦したのは国家という大きなものですが、敗者としての責任を負わされるのは、結局はトップの権力者ではなく、名もない市井の人々であるというところに、戦争の理不尽さを痛切に感じずにはいられません。

国家に翻弄され続けた人々の姿は、戦争によって真に失われるものは何なのか、ということを示しているように思います。

登場人物たちの家族や恋人など、誰かを愛おしく思う気持ちは、純粋で美しいものなのに、戦争という悲劇の中では、それらが微塵も役立たたない腹ただしさも感じます。

子どもから女性まで、実に様々な立場の人たちから見た戦争が描かれ、立体的な作品になっています。

 


一番印象に残っている突然のは、突然の「居合切り」のシーンです。
思わす新選組の斎藤一を彷彿とさせる見事な剣術で、その一振りに、物語全体の根底にある「日本人のゆるがない精神」を感じました。

終戦直前、日本軍により隠された財宝の謎を解いて行くという、一見すると歴史ミステリーなのですが、実際は重い戦争小説でした。

これもまた現代と終戦間際との2つの時間軸とをオーバーラップしながら展開していく事で、真相に迫る終盤には目が離せません。
後半はなりふり構わず怒涛の勢いで一気読みしてしまいました。



【参考文献】
青春読書


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