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家康が腹を決めたのは、秀頼が眩し過ぎたから。

うっそ~ん!

「おもしろい」

とつぶやきながら、茶々が不敵な笑みを浮かべる。

大坂の陣の引き金となった「方広寺鐘銘事件」は家康から難癖を付けたのではないの?
なんで豊臣方が仕掛けた事になってんの?

これには参った。。。
いったいどこまで徳川を美化するのでしょう。
いくら可能性はゼロではないにしても、私には強引に思えます。

過去記事にも書かせていただきましたが、茶々に対しては、その他のエピソードを繋ぎ合わせると、こんな画策をするとは思えません。
彼女の「悪のイメージ」は徳川の作ったものであり、この時点から全ての正義が徳川にあるようになっています。

あまりにも見境なく、こじつけてるわ~

この調子では、その後の大坂城の堀をことごとく埋立てた事も、どんな風に正当化するのでしょう。

これはまた、記事にし甲斐がありそうです。

この時、家康は70歳、豊臣秀頼(作間龍斗)19歳。
その圧倒的な経験値の差は埋める事は出来ず、豊臣を滅亡へと追い込んでゆきます。

松潤家康、キレイ事ばっかりではなく、狡さもしっかり演じてほしいものです。


二条城での会見で家康が見たもの

家康と秀頼の「二条城」での初対面はその後の歴史を大きく変えるものとなりました。
というのも、家康自身はそれまで秀頼をただのお飾り●●●だとナメていて、この日は自分がリードして優位に立ち、天下に徳川の立場の方が上である事を知らしめる絶好の機会でした。

ところが、目の前に現れた秀頼は、体格も態度も対応も、全てが威風堂々としていて、知性みなぎる智将として天下人の条件を備えていました。

こ、これは徳川はやられる💦

どう欲目で見ても我が息子たちより、ずっと大将としての器が備わっていると瞬時に感じたはずです。
人生を終えるまでに、なんとかしないと、少なくとも徳川は滅ぼされてしまう。

家康が腹を決めたのはこの時でした。


教育ママ・茶々

それもそのはず、秀頼は、次期天下人として当時の最高レベルの英才教育を受けていて、それは田舎の大名である家康の息子たちとは比較にならないものでした。

政治・法律・軍学・漢籍・和歌などのあらゆる教養は、後陽成・後水尾天皇の家庭教師でもある、清少納言の清原家一族の舟橋秀賢ふなはしひでかたから得たものでした。

武芸では、最後の近江守護だった六角義治に弓矢、家臣の渡辺ただすには槍などを習得していたらしい。
らしいというのは、秀頼が戦場の表舞台での武芸の成果を記す文献はないので、あくまでもどの程度の習得だったかはわからないからです。

しかし、行儀作法やしきたりなどはしっかり叩き込まれ、下心なしに純粋な気持ちで、年長者の家康を敬った態度を取ったに過ぎないのです。

しかし、それが家康にとっては「恐怖心」を増大させるものだったのです。


意外な賢君ぶり

家康が恐れたのは秀頼の立ち居振る舞いだけではありませんでした。

話してみると、一を言うと十まで理解する秀頼のその聡明さが伝わり、家康にとっては全てが満点の返答である事に、内心はたじろいでいたはずです。

誰が見ても天下人であり賢君そのものだ。
私が生きている間になんとかせねばいけない。

秀頼との会話が心地よいものだったからこそ、いっそう不安が大きくなったのではないか?

妄想ついでにもっと言えば、
家康と秀頼、もっと違う立場で出会っていれば、ウマの合う良い友人関係になれたのではないかと思います。
常に痒いところに手が届くような言動に、一番感じ入っていたのは、他ならぬ家康だったはずです。

しかし、彼らは争うべき間柄に生まれついてしまった。


自分には「死」がそこまで来ているのに、それに比べて秀頼の眩しいばかりの若さに嫉妬すら覚え、のんびり構えていた自分を責め、何としてでも豊臣を滅ぼそうと決めたのはこの会見でした。


王道と覇道

一方家康の実の息子、2代将軍となった秀忠といえば、なかなか自信が持てずにいました。
見た目は完全に豊臣家の秀頼の方が優れています。

そこで家康は、そういう弱い所が自分の血を受け継いでいると諭し、「王道と覇道」について問うと秀忠は答えます。

武をもって治めるは「覇道」。
徳をもって治めるのが「王道」なり。
「覇道」は「王道」に及ばぬものでございます。

あれ?
これって初回にもあった今川義元(野村萬斎)と若き家康とのやり取りと同じですね。

・王道ー文治政治
天に選ばれた王による政治

・覇道ー武断政治
自分の実力のみでの王の政治

元々は中国での政治思想で、孟子が儒教政治を説くのに「王道」の対義語として「覇道」を立てたのが始まりのようです。

家康の本当の目的は?

今回の大河は一貫して、天に選ばれた者であれば、たとえ徳川でなくても、誰でも「王道」を敷き、天下を治めれば良いというものがありました。

かつて「築山殿」が、
~争い合うのではなく、助け合いましょう~

というメルヘン語りがありましたが、なんと、家康も同じようなレベルだといえるのではないか。

確かに「王道」は理想です。
しかし、この後の家康の老獪な行動を見ると、とても「王道」とは思えないところもあります。

力と悪知恵で豊臣方を滅亡させた手腕は、まるで「覇道」ではないか?

確かに260年もの平和な世の中を作り上げたのは、尊敬すべき事ですが、それは結局、徳川の権威を表立て、「覇道」で牛耳っていた事になるのではないか?

家康は、天に選ばれた者だったかも知れないが、「王道」だったかどうか疑問です。
関ヶ原の戦い~大坂の陣での家康の老獪ぶりを見ると、日本を徳川一族のものにしたかったと思うフシもあります。

大阪人やから、素直に取られへんのかもしれんけど


徳川は京、大坂では嫌われ者だった?

後世の私たちはその後の経緯はわかっているし、しかも徳川の治世となっていくと、秀吉や淀君や秀頼など豊臣方の落度や失態がクローズアップされ、あたかも徳川に最初から正義があったとされています。

確かに秀吉は「秀次切腹事件」や「朝鮮出兵」など老齢期の暴君ぶりは目立ちます。
しかし実は、「応仁の乱」以来、荒れ続け、朝廷の権威も失墜した京を回復さたのは秀吉なのです。

それは平安建都以来、実に380年ぶりの大変革であり、近世都市として復活させた功労者で、京や大坂を含む中央の人々にとっては、豊臣は大恩人の何者でもなく、まだまだこの時点では、徳川は悪であり、豊臣こそが善だったのです。

だから、家康も「王道」だの「道徳心」などメルヘンなことを言っている場合ではなく、どんなに卑怯な手を使っても老獪にならざるを得なかったのでしょう。

歴史は勝ってから塗り替えればいいのですから。

真田信繁をどう描く?

豊臣びいきの大阪人にとって、真田信繁の反撃をまともに描いてくれるのかどうかが心配です。
今までがことごとく豊臣方をコケにしてきているので、悪い予感がします。

「冬の陣」では「真田丸」を駆使して、活躍するも「夏の陣」では家康にあと一歩の所まで攻めるという意地を見せて、見事に散った信繁の最期ぐらいは敬意をもって描いてくれることを心から願っています。

それこそ王道的な配慮がありますように。




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