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【日清食品創業者】安藤百福の生涯

みなさんは、「チキンラーメン」や「カップヌードル」を開発し、日清食品を創業した実業家、安藤百福をご存知でしょうか?

安藤は、世界初のインスタントラーメンである「チキンラーメン」を開発し、世界初のカップ麺である「カープヌードル」を発明しました。

実業家としてだけでなく、発明家としても不世出の存在となりました。

安藤百福

今回は、逆境に負けず挑戦を続け、世界の食品業界を塗り替えた実業家、安藤百福の生涯を解説します。

【生い立ち】

安藤は1910年(明治34年)、日本統治下の台湾に生まれました。

出生名は呉百福でした。

資産家の家に生まれた安藤でしたが、幼いころに両親を亡くし、呉服店を営む祖父母のもとで育てられました。

数字に強い興味を持った安藤は、幼くして足し算・引き算・掛け算を習得したと言われています。

1932年(昭和7年)、父の遺産で台湾に繊維会社「東洋莫大小」を設立します。

この事業で成功した安藤は1933年、大阪市に「日東商会」を設立しました。

実業家として活動する傍ら、立命館大学専門部経済学科に入学し、1934年(昭和9年)に修了しています。

第二次世界大戦が始まると、バラック住宅の製造などの事業を行い、軍需工場の経営にも携わりました。

戦争で炭の需要が高まると予測し、兵庫県で山を購入して炭焼き事業も始めました。

「誰もやっていない新しいことをやりたい」と意気込む安藤は、この頃から時代の流れをキャッチする能力に長け、失敗しても諦めないバイタリティーとベンチャー精神を持ち合わせていました。

ある時、国から支給された資材が横流しされていることに気付いた安藤が、憲兵隊に訴えたところ、逆に安藤自身が横流しした疑いをかけられてしまい、理不尽な拷問を受けました。

自白を強要された安藤ですが、調書への署名を拒否したため、拷問はエスカレートしていきました。

最終的に、知人を通じて元陸軍将校に助けを求め、解放されました。

【“魔法のラーメン”】

多くの事業を手掛けた安藤ですが、日本が敗戦すると、ほとんどの事業を失いました。

敗戦で焼け野原となった日本は食糧難となり、街は栄養失調により困窮する人々であふれました。

焼け野原にされた日本

これを見た安藤は食の大切さを痛感し、「人間はすべて食べることから始まる。食が足りなければ文化も芸術もない」と思い知らされました。

そして1948年(昭和23年)、「中交総社(現:日清食品)」を設立します。

屋台のラーメンに長い行列を作る人々の姿を見て、日本人が麵類好きであると確信した安藤は、「家庭ですぐ食べられるラーメン」の開発を決意しました。

ただ、1948年12月にGHQから脱税の疑いをかけられ、巣鴨拘置所に収監されることとなりました。

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)

これは、みせしめによる収監という説もあり、後に司法取引によって釈放されています。

大阪府池田市の自宅裏庭にわずか10平方メートルの小さな小屋を建てた安藤は、さっそく「家庭ですぐ食べられるラーメン」の研究を始めました。

道具や材料はすべて自分で探し、1日平均4時間という短い睡眠時間で丸1年研究を続けました。

不眠不休で開発に没頭し、何度失敗しても諦めなかった安藤は、妻が台所で揚げていた天ぷらをヒントに、麺を高温の油で揚げることを思いつきました。

こうしてインスタントラーメンの基本となる「瞬間油熱乾燥法」が開発され、1958年(昭和33年)、ついに世界初のインスタントラーメンである「チキンラーメン」が発売されました。

この時、安藤は48歳でした。

お湯を注ぐとすぐに食べられるラーメンは「魔法のラーメン」と呼ばれ、瞬く間に爆発的ヒットを記録します。

安藤は後に、このような言葉を残しています。

「即席めんの開発に成功した時、私は48歳になっていた。遅い出発とよく言われるが、人生に遅すぎるということはない。50歳でも60歳からでも新しい出発はある」

【あさま山荘事件】

1966年(昭和41年)、チキンラーメンを世界に広めるため、安藤はアメリカへ視察に行きました。

現地で訪れたスーパーの担当者は、チキンラーメンを小さく割ってカップに入れ、お湯を注いで食べていました。

これを見た安藤は、インスタントラーメンを世界に広めるには、食習慣の壁を突破する必要があると確信し、麺をカップに入れて食べる製品の開発に取りかかります。

ここでも、使用するカップの素材や大きさ、麵の固定方法といった難題に直面しましたが、課題を次々解決していき、61歳となった1971年(昭和46年)、世界初のカップ麺である「カープヌードル」が発売されました。

袋麺が25円の時代に、カップヌードルは1食100円と高価でした。

加えて、「立ったまま食べるのは行儀が悪い」といった意見もあり、なかなか店頭に並べてもらえませんでした。

正規ルートでの販売が難しかったため、安藤は給湯設備の付いた自動販売機を設置し、購入したその場でカップヌードルを食べられるようにしました。

また、銀座の歩行者天国で試食販売を実施しました。

試食販売では、新しいもの好きの若者たちが押し寄せ、多い日には2万食を売り切る人気となりました。

そして、1972年(昭和47年)2月、カップヌードルの人気に火をつけるある出来事が起こります。

あさま山荘事件です。

浅間山荘(2009年)

あさま山荘事件とは、日本の極左暴力集団である連合赤軍の残党5人が、軽井沢の「浅間山荘」で人質をとって立てこもったテロ事件です。

機動隊が投入され、およそ10日にわたって山荘を包囲した結果、犯人全員を検挙し、人質を救出しました。

ただ、犯人が銃や爆弾で応戦したため、機動隊員2名を含む3名が死亡し、27名の負傷者を出す結果となりました。

機動隊員以外の死亡者は、「犯人を説得して人質を解放する」と山荘に近づいた民間人でした。

ちなみに、犯人の一人である坂東國男が逮捕される直前には、坂東の父親が人質へのお詫びを記した遺書を残して自殺しています。

このあさま山荘事件はテレビ中継され、高視聴率をたたき出しました。

その際、山荘を包囲する機動隊員がカップヌードルを食べる姿がテレビで放映され、これが話題となって爆発的な売れ行きとなりました。

カップヌードルを食べる機動隊員(© Shotaaa https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Asama_Sanso_incident.jpg?uselang=ja)

その後、カップヌードルは世界的にもヒットし、世界食となっていきます。

【世界から宇宙へ】

晩年になっても製品開発の意欲が衰えなった安藤は、2002年(平成14年)、91歳にして宇宙食の開発を宣言しました。

自ら陣頭指揮をとり、無重力状態でもスープが飛び散らないなどの工夫を凝らし、開発を続けました。

こうして開発された宇宙食ラーメン「スペース・ラム」は2005年(平成17年)7月、スペースシャトル・ディスカバリー号に乗って宇宙へ飛び立ちました。

ちなみに、人類史上初めて宇宙空間でインスタントラーメンを食べたのは、日本の野口聡一宇宙飛行士です。

焼け野原となった日本を見て「人間はすべて食べることから始まる」と決意し、数々の逆境を乗り越えて開発した安藤の製品は、日本から世界、そして世界から宇宙へと羽ばたいていきました。

2007年(平成19年)1月、安藤は96歳でこの世を去りました。

アメリカのニューヨークタイムズは、「ミスターヌードルに感謝」という見出しを掲げ、その死を悼みました。

安藤の葬儀には、総理大臣を務めた中曾根康弘や小泉純一郎、後に総理となる福田康夫など、錚々たる顔ぶれが出席しました。

幼くして両親を無くし、戦時中は無実の罪で拷問され、敗戦後は無一文から再出発し、数々の失敗を乗り越えて世界初のインスタントラーメンとカップ麺を発明した安藤百福の不屈の精神は、あらゆる人々の模範となっています。

以上、逆境に負けず挑戦を続け、世界の食品業界を塗り替えた実業家、安藤百福の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇


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