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戦前生まれの母が無痛分娩を予定していたと聞いて驚いた話

先日母と電話で出産がらみの話をしていた時、ふと母が「私は帝王切開でなければ無痛分娩をする予定だったのよ」と言った。

私が生まれた50年以上前から無痛分娩ができたことにも驚いたが、戦前生まれの母が無痛分娩を予定していたことにはもっと驚いた。

私自身は無痛分娩なんて思いもよらず、普通にお腹を痛めて分娩するのが普通だと思っていた……と母に告げたら、母は呆れたようにこう言った。

「あんた若いのにずいぶん古臭いのね」

(いや、まったく若くはないが……ああ、母からすれば私は若いか)

その言葉を聞いた私は、

……うん。確かに私の考えは古臭いことこの上ない。

と認めざるを得なかった。

どういうわけか、昔の私は「お腹を痛めて生むことが当たり前だ」としか思っていなかった。無痛分娩なんて邪道だとすら思っていた節がある。

しかし、それはなんて馬鹿げた根性論だろうか。と今は思う。

女性は出産直後から地獄のような新生児の子育てが始まる。だから陣痛なんぞで体力を消耗したら子育てもままならない。無痛分娩できる状況ならしたほうがいいだろう。どうせ赤ちゃんが出るときは痛い思いをするのだし。

もちろん、無痛分娩には事故などのリスクもあるので、その判断は医師とよく相談した上で慎重に行うべきだとは思う。一応断っておくが、私はその道の素人だ。決して安易な無痛分娩をすすめるつもりはない。

ただ、お産を楽にする選択肢として無痛分娩はアリだと思っているだけだ。

話を母との会話に戻そう。

なぜ無痛分娩をしようと思ったかと尋ねたところ、

「陣痛の痛みを我慢せずに済むならその方がいいじゃないの」

と母は答えた。

まったくなんて合理的なんだろう。陣痛の痛みに耐えることは美徳だと思いこんでいる老婦人方も多い中、さらっと「痛みを我慢するのはナンセンス」と言い切る母の潔さはあっぱれ。その年代の人としてはずいぶん柔軟な考え方だ。娘の私の方がよっぽど頭が固くて古臭い。恥ずかしいな。私。

確かに、陣痛が長引けば産婦の体力がことごとく奪われ、下手をすると命を落としかねない。そうなれば生まれてくる子どもの命だって危なくなる。

私自身がそれをリアルに経験しているから、なおさら母の「陣痛で痛い思いをする必要はないじゃない」という言葉は正しいと感じる。

(ここで繰り返して言うが、安易な無痛分娩を推奨しているわけではない。医師が診察した上でゴーサインを出したのであれば。という前提で以上の話をしている。悪しからず)

私の最初のお産は、まる2日強くなったり弱くなったりする陣痛に苦しんだ挙句、異常が発覚しての帝王切開。だから生む瞬間の痛みはわからなくても陣痛がいかに辛いものかは誰よりも知っている。

また、それだけの長い時間陣痛に耐えたせいか、体力が限界を超えるほど消耗して母子(特に子ども)がともに危険な状態にもなった。

私が出産したのは設備が整った大きな病院だったから、陣痛がどのような状況であるかは常に監視できる体制は整っていた。それもあり、同じ病院で同じ時期に生んだ人でも無痛分娩を選ぶ人は多かった。

そんな状況であれば、仮に無痛分娩でも病院の方で私の異常に気づいて適切な処置が施されたに違いない。

実際、痛みに強い私は陣痛で苦しんでもナースコールをほとんど押さなかったが、長引く陣痛で異常を察知した医師や看護師が黙っていても10分おきぐらいに来てモニターなどをチェックしていた。だからこそ母子ともに無事な状態で出産できたのだ。

そのことを思い出すたびに、母子ともに危険な状態になるまで陣痛のフルコースを味わう必要はなかったと思う。まったく母の言う通りだ。無益な根性論を振りかざし、無痛分娩を選ばなかった私の選択はおそらく間違っていた。

無痛分娩に限らず、母という人は何においてもいち早く新しいものや新しい考えを取り入れる人だ。その根底には「自ら苦労を選ぶ必要はない」という確固たる思いがある。

そのような考えに至ったのは新しもの好きな母の性格もあるだろう。しかし、結婚前からさまざまな苦労を強いられてきたことが、母の合理性を培ったのかもしれない。

母はよその娘さんが青春時代を謳歌している間ずっと母親の看病と主婦業に明け暮れていた。だからこそ、それ以上の苦労を避ける方法を模索し、それを実践してきたのだろう。

それにひきかえ、「出産の痛みを味わってこそお産だ」なんて生ぬるいことを言っていた私は、母のように青春時代を台無しにするレベルの苦労を味わっていない。つまり「本当の苦労を知らなかった」ということだ。

だからこそ、古臭い精神論で苦労を美化した結果、自分や生まれ来る子どもを危ない目に合わせてしまったのだ。

どうせ出産の先にある子育てでは、親としての苦労を避けることはできない。ならば出産は安全性を保ちつつ、いかに楽に出産するか?を追求していい。と今は考えている。

そして、母が持つ新しいものへの柔軟性や合理性は私も見習い、下の世代にそれを伝えていきたいとも思っている。

母の「嫌なことは極力避ける」姿勢は非常に合理的だが、「本来自分が負うべき責任を人になすりつける」という欠点もある。母について言えば、母自身が解決すべき問題まで私たち家族に解決させようとする傾向があり、家族が迷惑をこうむっている。(苦笑)

そんな母を見ていると、精神衛生上嫌なことを避けることは必要だが、それが過ぎるのも問題だとも思う。苦労はしょい込みすぎても避けすぎてもよくない。その辺のバランスをどうやって取るかを考えて行動しなくては。

人生には、どう頑張っても避けられない苦労や避けてはいけない苦労がある。しかし、避けられる苦労はできる限り避けるべきだ。その一つが無痛分娩だと思う。

私は、将来我が子やその配偶者が我が子を出産するにあたって「無痛分娩にする」と言ったら決して否定しない。本当に無痛分娩が可能かどうかは主治医が決めることであり、私たち素人はその判断に従えばいいだけの話だ。

また、何事においても避けられる苦労や省略できる手間は省く方向でいきたい。

私も若くはない。残りの人生でそんな無駄な苦労や手間に時間をかける暇はない。母のレベルまでいくと少々まずいが、母の半分くらいは自分が楽な道を選ぼう。私はもうそれが許される年齢だと思っている。

それにしても、よもや戦前生まれの人に「古臭い」と言われるとは。私もヤキが回ったものだ。これから少し頭の中を整理して新しいものを受け入れる余地を作らねば。頭が固くなりすぎてボケるのだけは避けたい。

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