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高齢の母を姥捨て山に捨てたくなった話

先日、高齢の母から「子どもを産むのは老後の安心材料を増やすため」というパワーワードが飛び出した。今思い返してもかなり強烈なパワーワードである。

で、その直後に「私たちを産んだのはそのためですかい?」と母に聞いたところ、「それ以外にないでしょ」ときた。

その言葉を聞いた瞬間、母を姥捨山に捨てたくなった。

母はかねてから「子どもは親の作品」など、子どもの人権はどこ?みたいな発言が多かった。

しかし、まさか「子ども=老後の安心材料」とストレートに言うとは驚きだ。それを子どもに言ったら子どもがどう思うかもわからなくなったのだろうか?

それだけ年を取ったということだろうが、そのような老い方は悲しいものだと感じた。

私も将来年を取って心細くなったら、子どもに対してそんな風に考えてしまうのだろうか?と不安になる。

それを防ぐために今から何を心がければいいのか考え中だが、今のところあまりよい考えが浮かんでない。まあ、そのことはゆくゆく考えるか。

とりあえず、母には「子どもは無料で介護させ放題の道具ではない」とくぎを刺した上で、「自分にできる範囲でしかサポートしないからそのつもりで」とも告げておいた。

それを聞いた母は、周囲の介護状況も聞いているらしく、私の言葉にしぶしぶながら首を縦に振った。そして「そこはあんたたちに任せるよ」との言質を取った。

奇しくも、母がパワーワードを口にしてくれたおかげで、私もはっきり自分の方針を伝えることができたわけだ。

私にも私の生活があり、自分の家族がいる。親は大事だが、自分の生活や家庭はそれ以上に大事だ。

それに、私自身も一生抱える病気を複数持っており、介護で無理をすれば自らのQOLを著しく損ねかねない。親子といえどもできることには限度があることは、親にわかってもらわないと困る。

介護ではなにが起こるかわからない。どれほど心や制度利用の準備をしても介護の当事者には大きな負担がのしかかると聞く。

幸い、両親は高齢になるまで自分たちで生活できる状態を保ってきたが、今後はそうもいかないだろう。

だからこそ、どこかで一線を引いて自分が壊れないようにする心構えが必要だと考えていた。

そんな折に母が発した思わぬ言葉でその一歩を踏み出すことができたのは、実はラッキーだったかもしれない。

そう考えれば姥捨て山に捨てたくなった母の言葉も、それなりに意味があったようだ。

まあ……とにかく何があっても自分の体と生活を第一に考えながら、今後目の前にふりかかるであろうさまざまな親の問題に対処していこう。

それが、老後の私の健康や生活を守り、子どもに過大な負担を与えないことにつながると信じて。

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