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『短歌研究』2024年3月号

天井の材はするどく崩落す新春福袋の山頂(いただき)へ/福袋が広場うづめてゐしゆゑに天井瓦解の負傷者あらず 黒瀬珂瀾 まさに現場のリアル。日常の空間が突如地震で崩壊した。人々を救ったのは福袋という軽いお楽しみアイテム。現場性が歌の力に転換する。

数秒の地震が断ち切る数十年のあはれ山なす災害ゴミは 黒瀬珂瀾 数十年間、人々の大切な暮らしの支えであったものが災害ゴミとなってしまった。それに囲まれて生活していた人々はどんな思いで見つめているのだろうか。「あはれ」と言わずにはいられない主体。

人生がやり直しのきくものならば大間(おおま)のマグロ漁師といふ道もある 小池光 無いよ、そんな選択肢。というかこの四句十一音にどんな職業を入れても(人はよくそんな空想をするが)、結局今なっているようにしかならないと思う。人生にやり直しはきかない。

鮭ならばさかのぼるべし眠るときは川へと還る身体にあれば 千葉優作 三句六音のどこか気怠い感じが幻想感のキモ。今まさに眠ろうとする時、人はどこへ行くのか。魚だった頃の記憶を思い出し、身体が川へ還る。そして上流へと遡っていく。「鮭」がダイナミック。

⑤三井修「能登が生んだ二人の歌人 岡部文夫と坪野哲久」
 岡部と坪野の生涯と作品を紹介しながら、故郷の風土が歌にどのような影響を与えたかを考察している。簡潔だが味わい深い評論だった。三井の父と岡部が同僚だったこともエピソードとして紹介されている。
 島木赤彦と坪野哲久の師弟関係の話も好きだ。生き方がかなり違うので、最初に師弟だと聞いた時は、あまりピンと来なかったが、いくつか話を読むうちに、信頼関係があったことを知った。この評論で紹介されている話も結構じわっと来る。

⑥吉川宏志「1970年代短歌史 定型論の進展」
 今回は、この連載の中でもかなり重要なパートだと思う。現在に繋がることがとても多い。現在の定型観の基本は70年代にあるのではないかと感じた。引用されている論を全部読むのが理想なのだろうが…まずこの論を読もう。
 〈(塚本邦雄の、)流暢なリズムにならないように言葉を切断し、イメージを重層化する方法は、前衛短歌の存在意義そのものだった。窪田空穂の歌とは、文体も、文体を生み出す思想も、大きく異なっている。〉
 思想と文体。前衛短歌の、現在の短歌への影響を考えさせられる。
 〈(佐佐木幸綱は)音やリズムを分析する方法ではなく、なぜ現代において定型を用いるのか、という、いわば思想的な問題として論じようとするのである。(…)なぜ、わざわざ制約の多い定型を使って表現をするのか。〉
 これも今に繋がる話。

⑦吉川宏志〈三枝は、短歌はもともと長歌に対する反歌であったことに着目する。(…)短歌はつねに何らかの出来事を比喩的に表現したものとして、読者の前に現れてくる。たとえば樹々の葉が風にそよいでいるという自然描写であっても、何かの喩として感じられるわけである。〉
 純粋な描写は有り得るのか、という気もする。喩としてとられることが、作者としては本意ではない場合もあるだろう。最近、その辺が歌会などで気になったりもしていた。しかしこれは既に70年代に論じられていたことだったのだ。まあ、この例で言えば万葉の時代から。

2024.3.26.~28. Twitterより編集再掲
 

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