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河野裕子『紅』(11)

 第Ⅲ部。二年間の北米滞在を終えて日本に帰って来てからの日々。『紅』に関しては北米滞在がよく話題になるが、実は全体の中の量的にはあまり多くない。帰国当時は、短歌の世界はライトヴァースが大きな盛り上がりを見せていた。河野の歌も変化していく。

昨日ここに咲きゐし黄あやめの花なくて今日鮮しき黄あやめのつぼみ 黄あやめの花を見る主体。昨日の花はもう無く、葉と同じ色だったつぼみが今日は鮮烈な色を見せている。それだけを描写して、花の命が交代していることを表現する。六九五七八。上句、結構重い。

不眠の夜いくど思ひしこの辻を母音ねばりて人らゆき交ふ/抑揚の乏しさはまたなだらかさ雨傘かたぶけ立話して 河野は帰国した後、日本語の母音の粘りや抑揚の乏しさなど、まず耳で自分の環境の変化を確かめている。言語の意味よりも、音が先に心に入って来たのだ。
 アメリカで不眠の夜、何度も思い出した故郷の辻。そこを人々が行き交っている。「母音ねばりて」は関西弁の「こーんーにちはー」のような挨拶を想像した。小雨のように抑揚の少ない日本語。ダイナミックな英語に慣れた耳には平板で、しかしなだらかな優しい音に聞こえたのだろう。

雨の夜に爪切り使ふひつぴつと記憶の誰かも爪切りてゐし 雨の夜に爪を切る。それだけでなぜか物憂い気分が漂う。記憶の中の誰かが爪を切る姿と、今爪を切っている主体自身の姿が重なり合う。「ひつぴつ」という爪切りのオノマトペ。独自だが誰をも納得させるものだ。

どんよりとせる年寄猫を抱きあげてわが憂うつを撫でてゐるなり 猫がどんよりとしているわけではない。主体の心が反映しているのだ。猫を撫でることは即ち自分の憂鬱を撫でることになる。どこかに憂欝を捨て去ることができないなら、逆に撫でて手なづけてしまうのだ。

子供らは大きくなりゆく母を呼ぶこゑの稚さわれに残して 子供は目に見えて日々成長してゆく。親の身体はそれに比べて変化が見えないので、取り残されたような気分になる。ただ、子供たちのまだ幼さが残っている声だけが主体の耳元に残る。そっと静かに響いているのだ。

したひたとややに間遠になりゆきていつしかふとも雨はやむらし 雨の音を「したひた」という独特のオノマトペで表現している。間遠になりゆく感じも伝わる。いつの間にか不意に雨はやむらしい。この下句は文語体に見えるが、意味的には現代語に近いのではないか。

2023.9.27.~30. Twitterより編集再掲

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