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『短歌研究』2023年4月号

火がひとつ、炎(ふたつ)、焱(みつつ)に燚(よつつ)まであるをよろこぶいつか使ふか 永田和宏  取りあえず、いま、この歌で使ってる。もう一度はあるかな?

晩年は死後さかのぼる時間にて月は比叡の肩を離るる 永田和宏 死んでからさかのぼる時間は上向きの直線をイメージさせる。比叡の肩にいた月が空に上がっていく動きも上向き直線だ。イメージが重なり、比喩のように働いている。

いいひとと一途なひとが憎みあひかつ惹かれあふ潮騒のなか 魚村晋太郎 「いいひと」も「一途なひと」も主観的な見方だ。違う視点で見たら全く違う見え方をするかも知れない。様々に解釈できる関係性を暗示しつつ、結句が景の中に収めている。映画を元にした連作。

若くない女性歌人は巻末につけ足しの雑誌でしたね、Yさん(エディター)。黒木三千代  詞書に「一九九二年」。エイジズム、特に女性の場合は、とても詠い難い素材と思う。この歌では直接的に詠っていてハッとした。一九九二年からどれほど環境は変わったのだろう。

瞳孔は知りたさの沼その沼へ何羽の鳥を引き摺り込んで 田村穂隆 他人の人生を盗み見たいという欲望を抑えきれない目。上句は切れ味の鋭い喩となっている。作中主体も鳥のように引き摺り込まれそうになっているのだろう。その貪欲な目から逃れたいと藻掻きつつ。

⑥「短歌の場でのハラスメントを考える」
川野芽生〈「作品と作者の人格は無関係だ」といった言説が、結局、作品を(ひいては作者を)擁護するためにしか用いられないことには注意すべきだろう。〉
林あまり〈文学に一般社会の道徳を持ち込んだうえ、主人公と作者を同一視した中傷である。〉
    この2つは同じことの裏と表だ。問題は、どちらから見るかが、享受者の集団的には恣意的で、ある時は一方方向から、またある時は正反対の方向から、対象が扱われるということだ。

⑦吉川宏志「1970年代短歌史」
〈東大安田講堂事件(1969年)など、過激化してゆく学生運動に対する違和感も、社会の中に広がっていた。左派的なイデオロギーが解体されてゆく八〇年代のポストモダンを先取りしたような感覚が、村木道彦の文章には表れている。〉
    村木道彦について。歌集『天唇』の新しさは歌として表面に表れているものだけでなく、思想的な裏付けがあったということ。私自身この時代を生きてはいたが、子供だったので、何かが分かっていたわけではなかった。ただ時代の空気感はまさに吉川が書いている通りだったと思う。
    短歌の口語化ということで言えば、村木道彦はもっと取り上げられてもいい歌人だと思う。短歌史において70年代はエアポケット化されているが、吉川のこの論等をきっかけにもっと見直しが進むといいなと思う。

⑧吉川宏志「1970年代短歌史」〈大げさに言えば、日常を言葉によって異化する歌、と呼ぶことができるだろうが、先入観を崩し、常識的な物の見方をくつがえしていこうとする意識が強い。こうした歌は現在も作られ続けているが、『望郷篇』はその方法をポピュラー化した一冊だったと言えるかもしれない。〉
    浜田康敬について。  現在、一手法として一般化していることの”ルーツは何か”というのを探るのはとても難しい。日常を言葉で異化するということと浜田の歌との関連は心に留めておきたい。

⑨吉川宏志「1970年代短歌史」
〈新人の歌集が注目され、売れる時代になっていったのである。反措定出版局と茱萸叢書は、その先駆けだったと言えよう。〉
    今と状況が似ている。似たような事象が繰り返されているということか。さらに吉川は高野公彦の文を引く。
「(…)出したい人、いい歌を作っている人は、べつに許可なしで歌集を出す。今はそうなっていると思いますが、昔は先生に言われるまでは絶対出せないから、生涯、一歌集という人がいました。」(高野公彦)
    この「昔」というのが大体いつぐらいのことなのか知りたい。有名歌人ではない、一歌人が歌集をどのように出していたか、もっと詳しく知りたい。先生の許可が無ければ、というのは何だかアララギっぽいけど、高野の回りでもそうだったのだなあ。歌集出版の歴史を整理したら面白いだろう。不文律みたいな伝わり方しかしてないと思うからだ。

⑩吉川宏志「1970年代短歌史」
〈それぞれの個性は違うけれども、透明な優しさのようなものが、まぎれもなく共通している。優しさの中にも静かな孤独感が満ちていて、人とつながることのできない悲しみも、しばしば滲み出している。樹や海などの題材も共通して歌われているが、それらは個別的なものではなく、象徴的なイメージなのである。どんな種類の樹か、どこの海か、といった情報は不要で、ただ樹として海として、純粋に存在してほしいという希求が、これらの歌の背後には存在している。〉
    これらの評言は74年、75年に出た、伊藤一彦、三枝浩樹、永田和宏の第一歌集の歌についてなされたものだ。評言だけ読んでいると、今現在2020年代の若手の歌集について書かれてものと言われても違和感はない、ということにちょっと驚いて、引用してみた。

⑪佐藤弓生〈昭和後半にはまだ、とくに知識人などではない中流家庭の人たちも教養へのあこがれを持っていて、私が育ったサラリーマン家庭の集合住宅にすら文学全集と百科事典がそろっていたものです。それらは食器棚の中のカップとソーサー一式のごとく、ガラス戸のある本箱に整然とおさめられ、なかば家具と化していました。〉
    これは実は日本の戦後のインテリアのスタイルなのです。

    一部引用しますと、
〈戦後、新たに暮らしの中に入り込んできたサイドボードの中に何を置く。それまでの日本の家具にはなかった全面ガラス戸の洋風の飾り棚の中に、日本人は何を並べたのか。(…)"洋酒"と"百科事典"。〉
    よく見る風景だったようです。わが家もでした。

⑫作品季評 平出奔歌集『了解』
ユキノ進〈これまで歌にならなかったような、文学にならないと思われていたものをどうやって文学にするかといったことに挑戦しているのではと思います。〉〈定型にピタッと収めてくると、どうでもよさが逆に損なわれる感じがある。破調になっていれば本当に目の前で起きたどうでもいいことを書いたように見えると思うんですけれども、短歌の韻律にぴったり収めていくことによって、二秒前のライブ感が損なわれて、(…)〉
    すごく共感する。平出奔歌集のとても大事なところを突いた意見だと思う。

⑬平出奔歌集『了解』
ユキノ進〈短歌というジャンルは言文一運動を永久にやり続けていると思うんですけども、『了解』は言文一致の最新版みたいなところがあるのではないでしょうか。〉〈感情だだ漏れみたいな、ある意味かっこ悪い素の自分みたいなものが書かれている点も明治の私小説のようです。目新しい表現である一方で、近代文学史の流れに位置づけられるものだと感じます。〉〈むしろリアルで会っている人は名前しか知らないけれども、Twitterで繋がってる人は心の中のいろんなことまで知っているみたいなところがある。関係は等価というより、逆転している側面もある。〉〈今TwitterやSNSなどによって新しい社会が出来上がることで出てきた新しい軋轢がこの歌集には反映されてるんじゃないかな。そういう意味でも近代文学史の最先端(…)〉
    いちいち全部同意。というか、私が最初に気づきたかったよ!

2023.4.12.~16. Twitterより編集再掲

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