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きみのかけら


昨年の終わりごろ、ムスメが押し入れを指さして「おにいちゃんがいる」と言ったことがあった。
思わずほろりと涙がこぼれた。
ムスメが指さした場所には、ムスメが生まれてくるまえにわたしの腹にいた、生まれなかった我が子の写真があるからだ。

わたしたち夫婦には、ムスメのまえにもうひとり子どもがいた。

妊娠がわかったのは2011年の12月。
検査薬に陽性反応があったので、病院へ駆け込んだ。
妊娠5週。赤ん坊のタネがはいった胎嚢という袋を見ることができた。

次の健診では、チカチカと光る心拍を確認。
モノクロの映像に映しだされた我が子は、クリオネに似ていた。
「順調ですよ」とお医者さまは言った。

三度目の健診は、妊娠11週。
クリオネのような姿をしていた我が子に、まあるい手足が生えていた。
「まえより、大きくなりましたね!」
わたしの声は、きっと希望に満ちていたと思う。
だって、わたしの子どもはずいぶんと立派に、大きくなっていた。
まるい頭には、目の入るようなくぼみが見えたし、かわいらしい胴体と手足が生えていた。

「でもね、赤ちゃんの心拍はもう止まってしまってるんだよ」
診断は、子宮内胎児死亡。稽留流産だった。
なんの自覚症状もないまま、わたしの子は生きるのをやめてしまったのだ。
会計を待っているあいだ、妊婦であふれかえる待合室で、声をころして泣いた。
どの腹にも子どもが元気で生きているのに、わたしの子どもは死んでしまった。
どうして、どうして――!

我が子は死んでしまったはずなのに変わらず吐き気が続いていて、かなしくてくやしくてたくさん泣いた。
病院のあった人形町から秋葉原まで、わんわん泣きながらやみくもに歩いた。
途中、驚いたひとたちに声をかけられたけれど、なにも言葉にできなかった。
だって、いったいなにを話せばよかったんだろう。

家に帰ってからは、インターネットでひたすら子宮内胎児死亡について調べた。
「子宮内胎児死亡 理由」
「子宮内胎児死亡 誤診」
「子宮内胎児死亡 生きていた」
調べても調べても、わたしの希望となるような言葉は見当たらなかった。

仕事から帰ってきた夫は、わたしといっしょに声をあげてわんわん泣いた。
「人騒がせなやつだな、早くもどっておいで」
いっしょに泣いてくれるひとで、良かったと思う。

わたしはわたしの子どもを、中絶するのと同じ方法で、取り出さなければいけないらしかった。
診断が下ってから二日後、わたしは再び診察台に乗った。
二日ぶりに見た我が子の姿は、すっかり崩れてしまっていた。
「赤ちゃんはきみの体に吸収されて、きみの一部になったんだ」とお医者さまは言った。
いっそわたしのからだで、いっしょに生きていければいいのに。

手術は、とても痛かった。
子宮口を拡げる処置からすでに痛くてうめいていた。
麻酔が効きにくい体質だったようで、掻把手術の最中に目覚めてしまい、たいそう泣いて暴れたようだった。

死んだ子どもの姿を見たいとお医者さまに伝えたけれど、原型をとどめていないから見せられないと断られてしまった。
けれど、やっぱり見たかったな。
たとえからだの欠片でも、わたしのなかに宿った子どもを一目見たかった。
短い付き合いだったけれど、たしかにわたしはきみをあいしていたのだ。

掻把手術からまもなく、ふたたび検査薬に陽性反応があった。
前回とはうってかわって、最初の健診での診断は「子宮外妊娠疑い」だった。
専門家ではないので詳しいことはわからないが、妊娠を示す数値が高いのに、腹のなかに子どもの姿が見えなかったのだ。

次の健診で、無事胎嚢を確認することができた。
しかし、週数に対して胎嚢が小さすぎるため、このまま流産に終わる可能性が高いと診断を受けた。

また、我が子が先にいってしまう。

そのころのわたしは、重いつわりに苦しんでいた。
水を舐めても吐いてしまい、ついには尿が出なくなった。
吐くものがなくなると、緑がかった苦い液体ばかりが込みあげてくる。
たった一ヶ月のあいだに、体重は10キロも落ちた。
口のなかがつねに渇いていて、体は甘ったるい異臭を放っていた。

わたしも頑張るから、きみもどうか、頑張って――!

妊娠10週。
スローペースで走り出したふたりめの我が子の心拍が見えた。
それから、モノクロの映像のなかで動く姿も。
「おめでとう、これだけ元気な姿が見られるのって珍しいんだよ」

人生二度目の妊娠は、合わせて七回も入院した。
重症妊娠悪阻で二度入院し、切迫早産で三度も入院した。
NSTで張りが定期的に計測され、「陣痛きてますよ!」と入院を余儀なくされたこともあった。
不安はたくさんあったけれど、とても元気なムスメが産まれた。

通常は後陣痛が起こって出てくるはずの胎盤が、なかなか出てこなかった。
腹のなかにしっかりとくっついてしまっているようで、出産後そのまま分娩台で手術が行われた。
手術をしてくれたお医者さまから話を聞いたところ、どうやら流産に終わった我が子がいた場所に、ムスメの胎盤が根をはっていたらしかった。
切迫早産で、外に飛び出しそうだったムスメをつかんでいてくれたのは、きみだったのか。
そんなことを思ったら、少し泣けた。

わたしはわたしが自分の子どもを失うまで、妊娠したら無事に出産するに違いないと信じて疑わなかった。
しかしそれは大きな間違いで、流産の可能性は約15パーセント。けっして珍しいことではないのだ。

いっしょに生きていくことはできなかったけれど、たしかにここにいたわたしの子ども。
わたしに吸収されたはずのきみのかけらを連れて、また今日を生きていく。


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