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大平正芳首相のために私たちはもっと祈るべきだった

◆◇◆統一協会と真逆の大平正芳のキリスト教信仰を再認識する
67年『クリスチャン新聞』や72年『カトリックグラフ』での氏の発言をよすがに

クリスチャンとして世間に広く知られていた大平正芳氏が1978年、総理大臣に就任した。

このことを当時(78~79年)の週刊『クリスチャン新聞』は慶事として大きく、「クリスチャンの大平氏、首相となる」と伝えただろうか? そうではなかった。「大平首相のために神の守りを祈ろう」といった論調も全く出さなかった。

大平氏の首相就任を慶事として告げなかったクリスチャン新聞

当時のクリスチャン新聞に載って「いない」ということは、当時の日本のプロテスタント諸教会(特に福音派系、また「伝道熱心派」)のクリスチャンの間に、大平首相を祈りをもって支えるという発想や動向が希薄であったことを意味している。

クリスチャン新聞が肯定的に書かなかった理由を窺い知れる同紙の記事がある。それは1978年12月24日号掲載の小さな記事冒頭にある、「首相となった大平正芳氏は学生時代に洗礼を受けていることは良く知られているおはなし」という記述である(この記事は、「北から南から」という全国諸教会の小さなエピソードをたくさん集めたコーナーの一番下の隅っこに、大平夫人のエピソードを記したもの)。


形だけは洗礼は受けているかも知れないが…という不幸な誤解

すなわち、「形として、儀式としての洗礼は受けているかもしれないが、その信仰の実態はどんなものか知れたものではない」という、大平さんの信仰に対する認識が現れているわけだろう。

首相就任後初めて、クリスチャン新聞1978年12月24日号「北から南から」の一番下の隅っこに出された記事

また私が別の複数記事で問題提起しているように、日本の教会、クリスチャンの、政治や経済、また公共性の問題に関する全般的な無関心の表れでもあったと思う。

不幸な誤解を払拭し、今からでも発想を改めよう

しかしそれは、今回私も検証してみて、不幸な誤解、あるいはすれ違いであったと結論せざるを得ない。

私たちクリスチャンも、各人おのおのにおいて、大平さんの政策主張や言動について、「自分とは違う」という部分があるだろう。人が100人いれば、さまざまな問題に100の意見の違いがあるのだから(また大平さん日本の政治家であるわけだから、牧師や神父と同じ基準で測られるべきではないと思う)。

しかしそうであっても、クリスチャンとして明確な信仰を持ち、旗幟(きしょく)鮮明にしているなかで首相に就任した大平さんにもっと関心を寄せ、もっと祈りをもって支えるべきであったと強く思う。
私がそう言うのは、大平さんのキリスト教信仰と、そこから出てくる政治姿勢、言動は、特にそうやって支えるだけの値打ちがあり、真実があり、キリスト教信仰の中核をしっかりつかんでおられたと判断するからだ。

信仰から出てくる誠実さや公平な姿勢で、また正しい方向性をもって首相としての務めをも果たそうとしておられたと判断するからだ。

大平さんを顕彰する人たちは彼のキリスト教信仰に着目している

大平さんの「地元」香川県観音寺市に「大平正芳記念館」がある。「公益財団法人大平正芳記念財団」(そのWEBサイトで大平氏の全著作を読める)と深く関わりがあり、観音寺市が、第三セクターに運営を委嘱しているものだ。そういう、大平を顕彰する施設である。

その「大平正芳記念館」公式のFaceBookがある。その投稿の中で「中の人」が大平のキリスト教信仰について高い関心を寄せている記事がある。

「大平さんの人格や考え方の基礎を作ったキリスト教洗礼については、もっと調べて掘り下げんといかんなぁー」(Y)
確かに日経新聞「私の履歴書」にもキリスト教についての記述は少ない。大平正芳の弱者を思いやる気持ち、心地よい言葉だけに頼らない正直さ、物事を客観的に見て公平に判断する判断力、それらは全てキリスト教の教えが影響しているように思える。

大平正芳記念館 公式FB 2016年2月15日記事

「大平さんの人格や考え方の基礎を作ったキリスト教洗礼については、もっと調べて掘り下げんといかんなぁー」(Y)  確かに日経新聞「私の履歴書」にもキリスト教についての記述は少ない。大平正芳の弱者を思いやる気持ち、心地よい言葉だけに頼らない正直...

Posted by 大平正芳記念館 on Sunday, February 14, 2016


クリスチャンでは「ない」、しかし大平の人間性やその政治哲学、言動に深く思いを致し、敬愛の念を示す人々、また、大平から今日の自分たちの未来へのヒントをも得たいと考えている人たちが、「大平さんの人格や考え方の基礎を作ったキリスト教」「大平正芳の弱者を思いやる気持ち、心地よい言葉だけに頼らない正直さ、物事を客観的に見て公平に判断する判断力、それらは全てキリスト教の教えが影響しているように思える」と書いているわけであると私は思う。

しかし、そのキリスト教への理解がなかなか「届かない」ことはもどかしい。同じ公式FBに、大平とキリスト教の関わりについてリサーチした件が載せられている

 大平正芳元総理のキリスト教洗礼情報を得るために、観音寺教会へ行った。私の記憶にある教会は、観音寺市の聖母幼稚園近くにあったが、現在はまったく違う場所だった。  普通の建物だが、十字架と鐘が見える。渡邉牧師にお話をうかがったが、建物上部に付...

Posted by 大平正芳記念館 on Sunday, March 27, 2016

このFB記事を読んでキリスト教プロテスタントのクリスチャンである私の思いを述べると、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感を免れない。
「そこじゃないんですよ! キリスト教信仰ということから見た場合、もっと大切なポイントがあるんですよ」という気持ちになる。そのことも、元クリスチャン新聞大阪支局長(1992年から2000年)である私も今回、このNOTE記事を書いてみようと思った動機とも言える。

首相になる10年前、B.グラハム大会の聴衆として談話を寄せている

1978年12月、大平さんが首相になった時、クリスチャン新聞はそのこと自体を肯定的な記事として取り上げず、「大平さんのために祈ろう」というような論説も出していないことをすでに述べた。
小さい記事として、12月首相就任以来、翌年2月までの間には3回(12月25日、79年2月4日、2月11日号)登場しているのみである。大きな記事、また、「祈って支えよう」という論調は全くない)

しかし実は、首相になる前に大平さんがクリスチャン新聞紙面に登場したことが、10年前に少なくとも1回あったのだ。
それは、1967年10月20日から29日、日本武道館と最終日は後楽園球場を会場に、ビリー・グラハム伝道大会が開かれ、そこに一聴衆として参加した大平さんが感想をコメントを述べているのだ(67年11月5日号3面。肩書きは元「外務大臣」。それは62年第2次池田内閣時代である。他にも内閣官房長官などを歴任していた)。

「聖書そのままを純粋に、鮮明にときあかしている」との感想(1967)


クリスチャン新聞1967年11月5日号3面

1967年ビリー・グラハム伝道大会の際の大平さんのコメントは、「感動しまた。(ビリー)グラハム氏のメッセージは論理的にぬりたてるところがなく、聖書そのままを純粋に、鮮明にときあかしている。私は日本の混乱した時代に、我らがどう対処していくかを教えられた」というものであった。

このコメントは大平さんが、キリストの救いとは何であるか、キリスト教の一番大事な本質は何かということを、自分の内面の深い部分の事柄として的確に捉えておられることを示す内容であったと私は判断する。
そのことを解き明かしていきたい。

1972年カトリック神父との対談での大平

もう一つ、大平さんの信仰の本質を窺わせる史料がある。

2016年、大平氏の孫で、ジャーナリストの渡邊満子さんが、『祖父 大平正芳』という本を中央公論新書から上梓した。その中に、大平のキリスト教信仰の中核が明確に浮かび上がる、ある雑誌の記事が紹介されているのである(同書P90)。

その雑誌とは、月刊『カトリックグラフ』1972年4月号。

月刊『カトリックグラフ』1972年4月号表紙
キリスト教と一般社会の接点を模索したジャーナリスティックな紙面作りがうかがえる。田中英吉神父の対談企画に大平が登場している。
当時、新進気鋭の棋士、加藤一二三の名も見える。
出版は当時「コルベ出版社」。いまの「聖母の騎士社」の前身らしい(未確認)。

「イエスの十字架の犠牲の元からしか神の国は始まらない」

カトリックグラフ誌に、地元四国は高松の教区司教と対談した「政治家が聖書を読むとき」が収録された。『祖父 大平正芳』はその対談の内容をそのまま引用してくれている。

『祖父 大平正芳』90-91ページ

大平 キリストの周辺に多くの人が集まったとき、彼らはキリストを中心とした神の国で自分たちがどういう役割を持つか考えてるんですね。
ところが、キリストが孤独な立場になり、世間に捨てられ最後に十字架にかけられる過程では、キリストを裏切ったり去っていく人が出てくる。無知と言えば無知ですが、この世界が神の国に変わるんだと俗っぽい夢を抱いていた人が失望したわけですね。
(しばらくの絶句の後、確信に満ちた表情で)だけど、あのキリストの中に神を見てた人はおったんです。神の国はそんなに甘いもんじゃなく、キリストの形相の中に、キリストの死のもとにあるんだと見てた人は、みなまっとうな道を歩いてるでしょう。

『祖父 大平正芳』P90

統一協会の、世俗権力掌握を“救い”とする「反キリスト」思想と真逆の大平の信仰

現代的な問題との関連で言うと、統一協会の考え方と全く真逆なものである。
すなわち大平は、キリスト教(カトリックもプロテスタントも共通した)の教えと信仰の最も中心である、イエス・キリストが十字架にかけられて死んだことこそが、全人類の神に対する罪の身代わりであり、だから罪の赦しは備えられており、そこからだけ「神の国」(神による統治)が始まったことを信じているわけだ。

その逆に、統一協会は、イエス・キリストの十字架の死を失敗と捉える。そして、20世紀に新たなキリスト(メシア)文鮮明が現れて、イエスのやり損なったミッションを達成していき、その業に貢献することで信者は救われ、文鮮明が思うような世界の統治が成っていき、それが救いなのだという考え方を根本にしている。これ以上ない冒涜であり、非キリスト、偽キリスト教どころか全くの反キリストである。

荒野の誘惑を斥けたイエス

統一協会のように、どんな手を使ってでも世俗の権力を手に入れ、自分たちを世界の中心とし、自分たちの構想する「世界支配」を実現していく、というような考え方をイエスは「荒野の誘惑」を受けた際に斥けている(聖書・ルカの福音書4章1から13節)。

悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

新約聖書「ルカの福音書」4章5節~8節

統一協会のやり口はまさに、この「悪魔の誘惑」を受け入れて、「国々の権威と栄華」とを手に入れようと本気で作戦を立て、実践してきたものと私は思う。
何しろ今、実際に、日本という国の政権の深いところまで統一協会が侵食し、人々をマインドコントロールして手に入れた巨万の富で、その教祖らは権力を振るい栄華を手に入れているわけなのだから。
彼らの手口は、もしもそういう方法があっても、まっとうな人間なら採用しない、正に「悪魔の手口」とでも言うものである。

そういうものを斥けたイエスの、人類の救い主(キリスト)としての作戦と実行は、父なる神の前に罪なき「ご自分が人類の身代わりとなって死ぬ」ことであった。
そのことによって、悔い改めた者に赦しがあり、生き方が変わり、破滅に向かっている人間たちというものが父なる神(創造主)との正常な関係性に帰って救われることであった。

正統なキリスト教が(カトリック、プロテスタント、東方正教を問わず)信じていることは、イエス・キリストが、神の前に罪ある人類というものの身代わりとして十字架にかけられ殺され、墓に葬られ、死んで3日目に復活し(それはイエスがまことに正しい方であったことを父なる神がお認めになったから復活させなさった)、それから弟子らの見守る中で天に挙げられ、今も天において私たち人類の祈りを父なる神に「執り成し」ていてくださるということである。私たちは、救い主イエス・キリストを信じることによって救われると信じているのである。そのように神は人を愛してくださっているのである。

大平さんは、そのキリスト教の中核的な教え(キリストの十字架こそが救い)を信じていることを、『カトリックグラフ』での神父との対談の中で吐露したわけだ。

しかもそのことを言うにおいて、(しばらくの絶句の後、確信に満ちた表情で)というところに大平さんの、まことのキリストへの信仰の心(そしてそれは、「今」自分が政治家として置かれている、激しい内部抗争の状況とも重ね合わせながらではないか)が表れていると思う。

福音派と響き合った大平のキリスト教信仰

さて、67年のクリスチャン新聞記事に戻ろう。アメリカから日本に、大衆伝道集会のために来たビリー・グラハムだが、いわゆるアメリカの「福音派」を代表し、牽引する人物と言える(この件は、大統領就任式との関連など含め、別のNOTE記事で書きたい)。
そのビリー・グラハムの伝道説教を大平はわざわざ聴きに行き、福音派のメディア、週刊『クリスチャン新聞』に対して、彼の話した内容への全面的な賛意を示しているわけである。


若き日のビリー・グラハム


オバマ大統領と語り合うビリー・グラハム

さて、福音派とは、上述のイエス・キリストの十字架や復活を通じての救いを、「聖書に書かれている通り」にくっきりと信じることを中心とするグループである。

アメリカで、共同体を守るために発生した福音派

福音派が登場した歴史的経緯を簡略に記しておく。近代科学が発展する中で、聖書の記述や、昔ながらのキリスト教の教理は「科学」に矛盾し、現代人には役に立たないといった考え方から自由主義神学(リベラル神学)が19世紀、ドイツなどから登場する。「当時の」リベラル神学においては、復活ということや、人間にはキリストの十字架による身代わりが必要だといった考え方は「不合理」だとし、神学者らが各自の理屈を立てて「聖書に書かれていること」の脱神話化なり合理化を図る発想が強かった。

一方アメリカは「建国」以来、伝統的なキリスト教が社会の中心部分にあり、教会を中心として共同体が形成、維持されてきた経緯があった。
そこに、ヨーロッパからリベラル神学が入ってきた時、それは「建国以来」の、共同体結束の根底にある価値観を動揺させる脅威であると思われたわけだ。
そして、昔ながらの信仰を守らなければ、「共同体」崩壊をももたらしかねないという危機感が広く共有されるようになっていった。

聖書に書いてあるとおり

そして、「聖書に書いてある通り」に、「昔ながらの」(とは言ってもそれは、聖書を読んで初代教会の信仰の原点に帰ることを目指すルターやカルヴァンの宗教改革を経、敬虔主義運動、リバイバリズムを経た19世紀時点におけるものを指しているわけだが)キリスト教を信じていくことを強調する人たちが組織的にも団結して、アメリカ内外の教界に影響を及ぼしていくことになる。それがアメリカ発祥の福音派というものである。

福音派は、キリスト教全般において信じられているイエスの十字架、復活、昇天、人間の罪の赦し、そのイエスの名による祈りといった伝統的な信仰を、より大衆に分かりやすいものとして、明瞭に提示したものと言える。その際に強調されるのは「聖書は誤りのない神のことばである」という言い方で言われる信念である。そして福音派は、アメリカ人らしい、マニュアル化とも思われるほどの伝統的教義の定型化(明瞭化とも言える)と、組織的な展開を行った。そこには熱心や祈りや信仰心があった。

ジミー・カーターやチャールス・コルソンは福音派

アメリカの福音派は当初は、身近な、あるいは内面的な問題にのみ興味を寄せ、国政などへの影響もなかったが、1974年にニクソン大統領下野に至ったウォーターゲート事件の渦中、チャールズ・コルソン大統領特別補佐官が福音派の流れの中で伝道を受け回心、その著『ボーン・アゲイン』(1975年、日本では1979年邦訳)がベストセラーになり、続いて、福音派を標榜するジミー・カーターが大統領に当選する。以降、アメリカ国政における福音派の存在感が高まっていく。

ジミー・カーター大統領政権時、アメリカを訪問した大平首相

トランプの「副作用」

その流れの中で2021年、トランプ元大統領が、福音派の「組織的勢力」の超右派的部分を、自己の政治的目的への動員に引き入れるかたちで、「聖書に書いてある通り」の教理(終末論)を「恣意的に脱線」させて、合衆国議会議事場を占拠するという暴挙まで引き起こすに至ったことも記憶に新しいところである。

これは大変残念な、福音派の「副作用」とでも言うべき事件であったが、さほどにアメリカ社会で福音派(の考え方)の影響力が強い例証とも言えるだろう。
(当然のことながら、今やそういうトランプの姿勢に組みしない、良識派の福音派のリーダーら、人々が大多数であることを付言しておきたい。ビリー・グラハムの流れに属する人々もおおむねそうであると断言できる)

日本のクリスチャン少数派の中で首相になった大平

上述の福音派に関することは、まさにそれ自体がアメリカの伝統であり、精神的バックボーンにあるもので、アメリカの政界も、そこにどっぷりと浸かったかたちで推移してきたことを指摘しておく。

クリスチャンは少数派であり影響力のない日本社会における国政の舞台に大平が「クリスチャンである」と知られながら首相となったことの意味するところは、アメリカにおけるものとは大きく異なる。

しかし、伝統的で正統なキリスト教に連なる者として大平が、高い評価を受けるようなあり方で国政を担い得たことは、キリスト教というものの世界に普遍的な真理性が日本社会にも通用するものであり、国政においてさえ、深く良いものをもたらし得ることを、大平ただ一人の存在によって証明した出来事と見ることができると私は思う。

大平のキリスト教信仰は正統で、生き方や思想を生み出すもの

ここで、大平のキリスト教信仰について検証を試みたい。

大平の家は全くキリスト教と関係がなかった。しかし、高松高等商業学校(香川大学経済学部の前身)の学生時代、全国を巡回して学生に影響力を与えていた、国粋主義的影響の強い、しかしキリスト教のエトスを強く持った佐藤定吉の講演を聴いて強く惹きつけられ、求道を始めることとなる。

中堅農家の三男として生まれた大平は、大変な農作業を厭わず、忍耐深く思慮深い性格を身につけ、旧制中学の時代、自らが生死をさまよう病を経験した直後、父親が亡くなるという試練のなかで、佐藤によって提示されたキリスト教に惹きつけられることとなったわけだ。

しかし次第に、佐藤の路線とは離れていくことになった。そのことを大平は日本経済新聞「私の履歴書」に、佐藤のメッセージからは神が愛である、ということが分からなかった、ということと、自らは聖書を軸としてキリスト教信仰にさらに進んだという旨を記している。

それは、大平が「私の履歴書」に明記しているように、「内村鑑三先生をはじめとして、その門下の諸先生の著作に親しん」でいくことを意味していたようである。

矢内原忠雄からの影響

そして、旧・東京商科大学(一橋大学)に入学後は、内村の弟子である矢内原忠雄の「自由が丘のお宅の聖書研究会に参加させていただき、直接教えを受けた」(私の履歴書)。

当然のことながら他にも、大学の教授(上田辰之助、佐藤弘、杉村広蔵、山内得立、三浦新七、牧野英一など)、また賀川豊彦などからも多くを深く学んだ大平であったが、ここでは矢内原のことに焦点を当てたい。

矢内原忠雄。東大入学式にて

矢内原忠雄という人物は軍靴の音の高まりつつある1937年、東京帝国大学(経済学部)教授の座を、当時の軍国主義的国政を批判する言論が筆禍となって追われ、しかし終戦後復職、1951年、東京大学総長に選出された人物である(wikipedia)。

大平は、この矢内原が「クビを切られ」ることになる直前(大平の東京商大1933年入学)、矢内原にとって激しい逆風の時期に親しく私淑していたことになる。国粋主義的傾向の強い佐藤の路線でなく矢内原を選んだことも示唆深く感じられる。

矢内原は内村鑑三の孫弟子

矢内原は内村鑑三の孫弟子になるが、二人の関係について次のようなエピソードが残されている(『私の歩んできた道』矢内原忠雄)。

新渡戸稲造の弟子となった矢内原だが、内村を畏怖という程までに尊敬するあまり、個人的に面会する機会がなかった。
しかし、どうしても内村に尋ねたいことがあり、何日も祈った後に、内村の自宅を訪ねたのであった。

その質問は、キリストを信じることなく世を去った父母について、「キリストを信じることなく世を去った人は救われないのでしょうか」と問うたのであった。
内村は、天井の一角を見ながら「僕にもわからんよ」と一言つぶやいただけであった。
矢内原がその場を去ろうとしたとき、内村は「そういう問題は君自身が長く信仰生活を続けていけば、いつか自然に分かる。君自身が信仰を続けなければならないよ」と優しく語り掛けたのであった。

内村鑑三

それは、これまでキリスト教の信仰を表明した弟子たちの多くが棄教していってしまった中で、これから国の指導者になり世の中の表街道を歩いて行くことになる一高(旧・第一高等学校)生に、「君自身が長く信仰を続けなければならないよ」という期待を込めた言葉だったのではないだろうか。

矢内原のキリスト教信仰の内容は、『基督者の信仰』(1921年、国会図書館のデジタルコレクションでそれを読むことができる)などに記されている。この本は、キリスト教の背景のない自分の家族・親族たちのため欧州留学前に書き、それが後に出版されたものである。

イエスの十字架による身代わりを最も大事な根本とする内村の信仰

その内容は、先に述べたような正統なキリスト教の内容を、自らの信ずるところとして述べたものである。
内村鑑三が「序文」を寄せ、矢内原のキリスト教信仰について、「近代人の歓迎するいわゆる基督教にあらず、すなわち社会奉仕教に非ず、倫理的福音に非ず、文化運動に非ず、労働運動に非ず、古い舊(ふる)い十字架の贖罪教である」と記していることは示唆に富んでいる。

内村はさらに、「矢内原君はかたくこの信仰を取りて動かないのである。而(しか)して君にありてはこの信仰こそ最新の法理論、または経済説に勝りて国家民衆を救うに方(あた)りて力あるものである」と記す。

しかしこれは、クリスチャンが政治や経済を軽視し、個人の「内面の信仰」にだけ留まっていれば良い、と内村が考えているのではないと、すぐ後に明らかにされる。
すなわち内村はこう記す。「祈る、この著の多くの患(なや)める人に生命の糧を供し、先ず個人を救いて国家と社会とを健全堅固なる基礎の上に据うるに至らんことを」。
つまり、古い(キリスト教の歴史の中で、その教えの最も大事な中心点として伝えられてきた、イエスが人類への愛の故に、身代わりとなって救ってくださった)十字架の贖罪(人類の身代わりとしての死と復活を信じる)教がまず個人を変革し、それが堅固な国家と社会の基礎になるようにという祈りが込められているわけだ。

内村がその信仰を確立したのは、アメリカの正統派のクリスチャンからの人格的影響

この内村の言葉を考えるにおいて、内村が記した『余は如何にして基督信徒となりし乎(か)』(私はどうやってクリスチャンになったか)を想起せざるを得ない。

同書に内村が記すところによると、彼は札幌農学校の学生時代、キリスト教に改宗し、札幌バンドの一員となり、卒業後、北海道の職員として漁業調査と水産学の研究を行うなどの後、私的にアメリカに留学する。

そこで内村は「キリスト教国」と思っていたアメリカの拝金主義、人種差別、偽善、資本家の横暴等といった現実を知って幻滅する。非キリスト教国である祖国日本の方が精神的に高いものがあることをも感じる。また、アメリカ人宣教師が、知らず知らずのうちにであっても、非キリスト教国の異教徒からキリスト教に回心した者を「見世物の犀(さい)」のように利用する実態に憤りを感じざるをも得なかった。
しかし一方、アメリカには福祉事業などさまざまな分野に私心なき偉大な人々がおり、それは正にキリストの福音を基盤としたものであることを確認したのであった。

そんな中、アマースト大学で学ぶことになり、牧師でもあり総長のJ・H・シーリー(繊細な内村も彼から、「見世物の犀」のように扱われていると感じることは全くなかった)から大きな人格的な感化を受け、生涯、クリスチャンとして神に導かれて生きていくことになったのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』から抜粋する。

余(私)は其処(そこ。アマースト大学のこと)において本当に回心した。
主は其処にて余にご自身を現したもうた。特に彼(か)の一人の人を通して、――鷲の如き眼、獅子の如き顔、羊の如き心を有せるカレッジの総長(シーリー)を通して。
余の内にある霊、余に前にある模範、余を巡る自然と物事がついに余を征服したのである。もちろん、完全なる征服は生涯の事業である。
しかし余は、自身を征服するにもやはり余の空しき努力に恃(たの)まず、宇宙の能力(神のこと)に頼るに至るまで正しくされたのである。此の世の小さき神(「偶像」。あるいは自分自身の自己中心)――其は全能の力そのものによりてのみ征服せられべきものである。

『内村鑑三全集 第一巻』「余は如何にして基督信徒となりし乎」165㌻


アマースト大学ジョンソン・チャペル。
そこには内村に同大学で学ぶことを勧めた先輩、新島襄の肖像画も掲げられている

回りくどく感じる言い方であるが、内村は真に人として、自己中心ではなく、隣人のため、社会のために生きていくためには、まことの神に全面的に降服して生きるのだということを悟ったのであり、そのことは、アマーストでの生活を通して分かったと言っているわけである。そしてそのことが「分かっている」という点において「正しい」人間にして頂いたのだ、という主旨を述べているのである。

そういう生き方の中心が、イエス・キリストが、おのれが十字架にかかって人類の身代わりになって死んでくださった、その愛への信仰と感謝にあることを、矢内原の『基督者の信仰』への序文にも記しているわけである。

暖かい人格(愛)の関係を通して大平まで伝わったキリスト教信仰

そういう生き方は、シーリーという具体的な人を通じて人格を通して自分に伝わって来た、という感謝を内村は『余は…』の中で表明しているのである。

そのような信仰と生き方が、シーリーから内村に、内村から矢内原に、人格的な接触――それはキリスト教的な意味で愛の出来事である――を通して伝わり、矢内原の生涯が、クリスチャンとして生き通すことで世の中に貢献することになったわけだ。

そして矢内原から大平に――。

大平の生きざまの大事な部分は、内村-新渡戸-矢内原のラインから人格的な暖かさをもって受け継いだものが大きいと私は理解している。
そして、その内村は、アメリカのクリスチャンであるシーリーから大きな助けを受けて、世界に普遍な、イエスの十字架による救いを信じ、感謝するクリスチャンの生きざまを確立したと理解する。

そう考えると大平が、『カトリックグラフ』での対談において、イエスの十字架の元からしか神の国(神のご統治)は始まらない、と述べていることは当然のことである。

ビリー・グラハムのメッセージへの感想

そして、1967年、ビリー・グラハムの伝道メッセージを聴いての大平の感想が「聖書そのままを純粋に、鮮明にときあかしている」というものであることは当然のことであろう(ついでに、「論理的にぬりたてるところがなく」という表現は、当時の思弁に走るリベラル神学を意識しているのかもしれない)。

大平の信仰の中身を理解していなかった日本の福音派

さて、それではなぜ1978年、大平が首相になった際、クリスチャン新聞はそれを喜び、「大平首相を祈りをもって支えよう」という記事・論説を出すことをしなかったのか? 67年には小さな接触を通し、大平の信仰に触れ、それを伝えたはずであったのに。

それはおそらく、67年にビリー・グラハム大会に即してコメントをもらって以来、大平さんの動向や発言を捕捉するという取材や作業はなかった――したくてもできなかった――であろうということだ。日々の多忙の中、またスタッフも入れ替わる中、11年前に載せた大平のコメントを「忘れて」いたのであろう。それは私がクリスチャン新聞に勤めたことがある(1985-2000)経験からも自然に思うことだ。

全国一般紙であれば、政治専門の記者を首相番としてつけ、親しく接する中で、大平のキリスト教徒としての側面を観察できただろうと思う。実際、大平正芳記念財団の公式WEBサイトにpdfで収蔵されている「去華就實/聞き書き大平正芳」(2000年)に、大平の秘書や同僚などとして仕事をした人々へのインタビューが多く載せられているが、クリスチャン大平正芳を偲ばせる言及がちらほら目にとまる。その人柄と、人柄がもたらした仕事へのメリットを偲ぶような場面でである。例えば、外務省出身で秘書を勤めた佐藤嘉慕さんの述懐を見てみよう。

キリスト教の真髄が自然に口に出てくる人

佐藤 
いろんな局面がありますが、一番印象に残っているのは79年の夏、軽井沢へお供した時のことです。福川さんが国会の所信表明か何かを官邸で一生懸命に書いているわけですね。私は一番、暇だから行きましょうと、軽井沢にお供していた時、大平総理は「ひと夏、一橋の学生の頃、あそこにある教会で、アルバイトをしていたんだ」と言われた。『聖書』なんか私よりよく読んでおられるわけですよ。それで、次から次へと『聖書』の言葉が出てくる。「キリスト教の真髄というものが、自然に口に出てくる人なんだなあ」と思いました。そういう総理のプライベートな面だけど、非常に強烈に憶えていますね。
――  そのアルバイトとは何でしょうか。
佐藤 教会でおそらく説教師の手伝いをされていたんじゃないですか。とにかく『聖書』の言葉を「お前、知っているか」とばかり、次から次へと口にされるのですから……。
―― それは、佐藤さんがクリスチャンであるということを知っていたからでしょう。
佐藤 そうでしょうね。私がカソリックであることは、大平総理はご存知でしたね。ですから、総理の人間像には打たれるものがありますね。・・・
―― キリスト教の精神というものが分かっているから例えば外国の人と話をしても、平仄が合うというか何となく通ずるところがあると……。
佐藤 ありますね。総理を訪ねる多くの外国人が、会談の冒頭で皆な感激するんです。位の高い人もそうでない人も、誰がきても総理室に迎える時に大平総理は「あなたが、わざわざお訪ねいただいたのを私は感謝します」と・・・私も外務省にいて外務大臣にはおおぜいお仕えしたけれども、そういう温か味というか、この人と本当に話をしようという気持ちが、最初から出ている懇談の切り出し方をやる人は、大平総理以外についぞお目にかかったことがないですね。キリスト教とどういうふうに結び付くか、そこのところは分かんないけれども、何かあるような感じがします。

『去華就實/聞き書き大平正芳』「弱き者に対する姿勢」より

また、鈴木秀子氏(聖心女子大学教授)は『大平正芳 政治的遺産』に、「大平正芳とキリスト教」と題し次のように記している(大平氏の長男の信仰とその死についても触れている)。

私は(大平)志げ子夫人と親しくして頂いて、20年近くおつき合いしてきた。その間に、大平氏のキリスト教精神に裏打ちされた人間性をかいま見たことがある。
大平家の広い居間で家族と食事をしている時、別の隅で非常に困り果てた顔をした人が何かを大平氏にお願いしているらしい様子だった。内容はわからないが、40分間ほどめんめんと訴え、大平氏は椅子に腰かけながら、前かがみになって一言も言わず、聞いておられた。
訴えが終わった後、しばらく沈黙していて、そして、たった一言「よしわかった。安心していい」と言われた。
私は生き返ったような表情をしている話し手を見た時、聖書の中でキリストが悩み病む人の話をじっと聞いた後、「安心していきなさい」と祝福した場面と重ねていた。
人を温かく受け入れる大平氏の人柄の根底に息づいている信仰が、どの人をも大切にするということを実践させている、と強く感じたのだった。
本人とは直接、信仰について話したことはないが、大平氏と結婚することでクリスチャンになった志げ子夫人から、夫をしのぶ思い出話の中で、死ぬまで深い信仰の中で生きた大平氏の様子をいくども伺った。型にはまった信仰ではなくて、置かれた状況の中で、人を生かす、一人ひとりを人間として大切にしていくということに徹した点が特にあったという。

、『大平正芳 政治的遺産』「大平正芳とキリスト教」より

あまりに「ぬかって」いたクリスチャン新聞

そのような人が首相として国政のトップに立った瞬間があったのだ。
そのことに気付かなかったとは、クリスチャン新聞も何とぬかっていたことだろうか。

日本の教会の公共性への関心や理解の乏しさ

これはクリスチャン新聞の人員の体制が貧弱であるということだけではなく、その母体である日本のプロテスタント、特に福音派の、政治や経済、公共性に関わることへの無関心や理解の乏しさに由来すると思わざるを得ない。
もしも問題意識があったならば、何らかのルートを通して1978年の段階でも、大平の信仰のあり方というものが入ってきたはずであり、そこから取材や論説につながり得ただろうことと思う。

政策を実現することなく倒れた大平さんの歴史の教訓から今日学ぶこと

さて、内村鑑三の受けた、イエスの十字架による救い(自分も神に赦され愛されているのだから、自らも隣人を愛する)を根幹とする生きざまや、それが国家や社会を変革するまでになるという遠大な展望は、矢内原にも受け継がれた。
そして矢内原からも大平に、そのようなキリスト教信仰が受け継がれ、現実の政治家として、大平が首相として立てられるところにまで及んだ。

21世紀の日本を展望する長期政策構想を打ちだしていた大平

また、ただ首相の立場に着いただけでなく、その具体的な日本の未来に対する長期的ビジョン(政策案。内政においては「田園都市国家構想」など。外政「環太平洋連帯構想」など)を打ち出した。それは、大平の考え続けてきた素案から、若手の見識ある民間人有識者を集めた9つの研究会などを通してまとめられたものである。
その有識者の人選は、どこかの国の「利権を共にする“お友だち”」だけで固めたものとは全く違ったものであったことを申し添えておく。
党内抗争の最大のライバルであった福田赳夫について、その政治家としての見識や実力を認め、自分が倒れた後、首相になるべきは福田であると強く断言するような、深く広い器としての人物、大平正芳だったのである。

経済成長を遂げつつある日本が、21世紀に向けてどんな国家になるべきかという長期政策構想が存在し、それは人間大平の人格からにじみ出るように編まれたものであったわけだ。
その中身については、稿を改めて自分なりに研究し、紹介したいと思う。

党内抗争に埋没してしまった

田中角栄をして「大平君は政治家というよりは宗教家だねえ、哲学者だねえ」と言わしめ、しかもその政治家としての実力を認めさせ、「大平君は個人の政治家としてはたいへん立派な業績を残されたけれども、大平政権としてはそういう党内抗争の渦の中に埋没してしまって、内閣としての十分な成果を収めることができなかった……実際にやった仕事というのは、そういう政界のドロ沼の中に埋没してしまったと、こういうことですね」(『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』p228)と惜しまれた大平首相。

選挙戦のさなかに倒れた大平さん

「三・角・大・福」と言われた熾烈な党内抗争の煽りで、衆参同日総選挙に追い込まれ、それまで身を削るように抗争にも対処してきた身で、無理を押して選挙カーに自ら立ち、心筋梗塞に倒れ、現職のまま亡くなってしまった大平さん。

政策を実現する姿を見たかった

彼がリーダーとして、長期政策構想を現実に、少しずつでも実現していく姿を見たかったと思うのは私だけであろうか?
同信の仲間であるはずの日本のクリスチャンは、もっと大平さんの信仰や、政策にも関心を持ち、良い政策実現をしていけるように、そのために守られ導かれるように、文字通りの意味でもっと神に対して祈るべきであったと私には感じられてならない。

貴重な大平さんの存在と、その死を通して、今日私たちが神から与えられている教訓は、私たちは公の立場に立って仕事(大平さんの場合は政治家や首相)をする心ある人々、特に同信のクリスチャンの仕事の内容にも関心を寄せ、良き立場を得て良き仕事ができるように祈ることが必要で大切だということだと私は思う。

救い主でありであるイエスは、「求めなさい。“そうすれば”与えられる」「誰でも求める者“は”受ける」(新約聖書「マタイの福音書」7章7節~8節)とおっしゃたのだから。逆に言えば、どんな良いことでも求めてないのに「たなぼた」式に与えられることは滅多にないということだろう。

N E W 大事な追記

大平の伊勢、靖国参拝問題

福音派系でも大平首相誕生を歓迎しなかった背景として、大平が就任後、伊勢神宮参拝をした問題もある。

しかし、私は敢えて言いたい。
大平は牧師ではない。政治家だ。
また、無教会主義の流れにおいては、伊勢参拝についてホーリネス派などとは違う感覚があるかも知れない。

さて、今回は簡略に私の記憶を書くが、大平首相の伊勢伊勢参拝を受けて、富山県の福音派の牧師が「質問状」を書いて官邸に送った。
その中で、大平の神社参拝を問題視し、責め、さらに、神社を参拝する「あなたがクリスチャンだと言う」のはつまづきになるから「自分がクリスチャンと言うのを止めてください」と書いている。

私は唖然とした。

クリスチャン新聞の大ミスリード

しかし、これはまだ若い渡部牧師の個人の見解である。
問題はクリスチャン新聞がそれを大きな記事として、W牧師の論調のとおりに載せたということだ。

これは大きな問題をはらんでいる。
誰が「あなたはクリスチャンだというのを止めてください」という権利があるのだろうか?

これって重い人権問題ではないだろうか?

しかも、若い時からイエス様の十字架を中心とする真っ当な信仰に生き、政治の世界にありながらそのことを隠さず明らかに証しする生き方をしてきた人に向かってだ。何と失礼なことではないだろうか?
大平さんの感化でクリスチャンになってお連れ合いも、非常にキリスト教に躓いたのではないだろうか? そもそも、渡部氏は、私が先に述べたように大平の信仰について無知だったのではないか? 知っていて「自分をクリスチャンと言うのを止めよ」と言ったとすれば、何たる見識のない発言ではないだろうか?

また、新聞として大局をちゃんと見ていないのではないか?
ただ批判すればいい、というのがクリスチャンのスタンスなのか?
イエス様の十字架の足元からしか神の国は始まらない、と言い、ビリー・グラハムのメッセージを「思想的に塗り立てず聖書の通りに語っているのがいい」と言った大平さんが首相になったんですよ! なってくれたんですよ!  しかもアメリカでは福音派のカーターが大統領になるようなタイミングにおいて。

なぜ、そこに思いが及ばなかったのか?
大平さんのことを足がかりに、正統なキリスト教がもっと政治に影響を与える道筋だってあったはずだが、クリスチャン新聞にはその発想すらなかったということだ。
それが今日の統一協会跋扈を許してしまったことにどう申し開きをするのか?と問いたい。というか、ひたすら残念である。

この大平批判記事のみを大きく載せたのは、大きな痛恨のクリスチャン新聞のミスリードだと私は思う。

官邸からは回答があった

官邸からは回答があって「首相本人の深い思い巡らしがあって、本人の責任において決断した」旨書かれていた(それもクリスチャン新聞に報道されていた)。
誠実な姿勢である。ここをコミュニケーションの接ぎ穂に、福音派などの側と大平さんが話し合ったり、祈りの課題を設定できるチャンスだったと思われてならない(大平の側はそれを望んでいたのかもしれないという気がする)。単に「偉い権力者を批判して“終わり”」、兄弟大平さんを「切って捨てる」という出来事に終着してしまった。

しかしね、日本のキリスト教で、そういう問題に問題意識のある人って、大平さんを批判し、責めるだけであって、祈ったのだろうか?
「大平さんが、もう神社参拝を行わないでいいように状況を導いてください」と真剣に祈った人がいるのだろうか? またそういう発想をした人すらいなかったような形跡がある。これはクリスチャン新聞の大きなミスリード、日本の教界の大局観のなさであろう。「みこころが天で行われるように地にも行われますように」と毎週、礼拝で祈っているはずなのだが。

祈られて「いなかった」大平首相

そりゃあ、大平さん、信仰の仲間である人々に祈られていない(クリスチャン新聞にも「大平首相のため祈ろう」という呼びかけはないから教界に「そうだ大平さんを祈って支えよう」という世論はなかった)だけに、「運が悪い」状況が重なって、党内抗争のあおりを受けるなかで、せっかく作り上げた素晴らしい政策も実現できず夭折する、ということになった、というのが私の嘆きである。

靖国神社参拝問題の今日

大平さんは当時、首相にとっては慣習であった私人としての靖国参拝まで行った。
靖国神社国家護持復帰への反対は、クリスチャン新聞創設時からの大きなテーマの一つであるだけに、看過はできなかったであろう。
しかし先に述べたように、ただ条件反射的に反対という図式でなく、大平さんのために祈る、またそれに伴っての具体的なコミュニケーションが図られている、ということがあれば、大平も靖国問題について深く知り、思いを巡らし、違った物語があり得た可能性も高いと思われてならない。

加えて言うに、現在、自衛隊の元陸幕長が《自衛官の戦死に備えて靖国神社を国家の「慰霊顕彰施設」として「復活」させよと公然と主張している》状況がある。

キリスト教、福音派において現在、状況がここまで進んでいることへの関心や危機感は薄いと感じられてならない。

60、70年代、あれだけ靖国国家護持反対に力を入れ、その点で、クリスチャン首相の大平さんの「首を差し出した」ほどなのに、今その問題はスルーされているとしたら「あれ(靖国国家護持反対運動)って流行みたいなものだったのですかね」との皮肉を一言、言いたいところである。

歴史の教訓を活かせ

歴史の教訓は今後の道筋において、同じ失敗を繰り返さず、よりよい道筋にするよう生かすためにある。

いま、大平さんの業績と、クリスチャンとしてのあり方と、伊勢・靖国神社参拝について、大きな視点、バランスの中でどう扱われるべきだったか、しっかり考える必要があると私は思う。
それが、もっとクリスチャン首相としてもっと活躍し、世の中に仕えるリーダーとして奉仕することができたはずの大平を、むざむざ喪ってしまった日本の教界の、大平にまつわる歴史に事実から得られる教訓である。

社会党のクリスチャンの系列も切れてしまった

また、今回は個々には書けないが、戦前から、社会主義(非共産主義)の立場でクリスチャンとして、世によき影響を与えた人々の一群が綺羅星のように光っている(賀川豊彦もその一人)。

戦後も、社会党右派として、影響力を与え、社会党「十字架委員長」とメディアでも謳われた河上丈太郎をも輩出した(委員長に。1961)。

しかし河上の2代後の後継者である土肥隆一牧師(衆院議員。1990?-2012)を、韓国との関係における問題で失った(2011年。「竹島領有権放棄問題」により民主党を離党。下記「おまけ2 土肥隆一の「日韓共同宣言」署名問題」参照のこと。翌年「民主党・無所属クラブ」に復帰するも不出馬を表明、引退。民主党から旧兵庫1区は誰が立ったのだったか? いずれにせよ、同区で盤石の地位にあった土肥を失い、自民党の関芳弘が当選、今日に至っている)その際、教界は冷たく見ているだけで、土肥を擁護する発言や動向がなかったというのが私の記憶である。これはきわめて大きな問題だと私は思う。

その後、金子道仁牧師(単立・グッドサマリタン教会)が参院議員に立候補した際、牧師としての立場での立候補を認めたのは維新の会しかなく、同党から出馬、当選した(2022)。金子が、クリスチャン議員の系譜のあったはずと思われる立憲民主に積極的に掛け合ったかは分からない(未取材)が、同党(旧民主党)が、土肥の時は認めていた牧師としての候補を容れなかった、という見方もできよう(比例区においても)。

今後、大きな観点で、ものごとが良い方向に運ぶよう、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」との祈りが真剣に祈られ、最善の知恵が出されていくべきである。

参考記事

*こちらに、戦前からの社会主義の立場で影響を与えたクリスチャン国会議員のことに少し触れています ↓ ↓ ↓

*故・土肥隆一議員に思う(未執筆)
*公共性にまつわる、祈りを要する課題集(開設予定)
*米国福音派理解の一端として
「76年 米国ウルバナ世界宣教大会に1万7千人の学生集う」
*アメリカのキリスト教の底力を知るために
モハメッド・アリに負けた後のフォアマンの輝き 

おまけ 『石破茂語録』再版(第三版)↓



2020年の出版から今回、2022年末、第三版を、表紙も改め、新しい話も8本加えて、12月15日、出版されました(現在のところ本屋には並ばず、私的な流通になります)。
頒布価400円×冊数+送料です。新書サイズ、40ページ立てです。
ご注文、ご質問等は「あだむ書房」(三浦が必ず見ます)へメールでお願いします。desk@adampub.jp

内容(目次)
*新しい部分
消費税をどう考えるか(消費税減税も検討すべき)
旧統一協会について
新型コロナと緊急条項の議論は別に
外交の場では歴史の素養が求められる
「いっそ新党を作れ」の声に答える
迫力ない野党は国のためにならない
石破茂公式ホームページ ご挨拶より
石破茂議員の著作集
*以前からと同じ部分
民主主義の意義
「粛軍」演説
地方から成長と豊かさを
政治は弱い人、辛い人のために
国会の公正、政治の謙虚
大平さんの政治の姿勢
労働者の報酬と国際化
真実を語る勇気と真心
被災地に立ち未来を思う
串カツと本音
外交と国政における正義
地方創生とは
クリスチャンプレス掲載記事
公職にある兄弟姉妹のための執り成しの祈り
あだむ書房発行者の辞

おまけ2 土肥隆一の「日韓共同宣言」署名問題(wikipedeliaよりコピー)

2011年(平成23年)2月27日、日韓キリスト教議員連盟の日本側会長として、竹島領有権の放棄を日本側に求める下記の「日韓共同宣言」に署名し、韓国の国会で韓国の議員らと記者会見を行った。

「竹島領有権主張問題 共同宣言文の骨子」
一、日本は恥ずかしい過去に対し、歴史の真相を糾明し、日本軍慰安婦、サハリン強制徴用被害者など、歴史の被害者に対する妥当な賠償措置を履行し一、日本は、平和憲法改正と軍国主義復活の試みを直ちに中断しなければならない。
一、日本政府は歴史教科書歪曲と独島(注、竹島の韓国名)の領有権主張により、後世に誤った歴史を教え、平和を損なおうとする試みを直ちに中断しなければならない。両国の善隣関係は、真実の謝罪と賠償が出発点となる。

3月9日になってこの事実は明らかになり、問題化した。土肥は第一報を報じた産経新聞の取材に対し「個人的には、竹島は日本の領土とは一概にはいえないのではと思っている」と語った。9日夜の首相ぶらさがり会見で、菅首相は土肥の行動に対し、「大変遺憾」と語った。土肥はマスコミ各社のインタビューを受けたが「個人的には竹島は日本の領土とは一概には言えないと思っている。日韓両国が互いに自国の領土と主張すれば、問題はいつまでも解決しない(朝日新聞)」、「(竹島は)政治的には日本の領土だが、話し合いはすべきだ(時事通信)」、「竹島は日本の領土との認識に変わりはないが、日韓双方の主張があり、韓国側の主張にも納得できる部分もある(読売新聞)」、「(竹島に関してはどのように?)それはもう、日本の領土ですよ。あの文章はやっぱりね、今読み直してみても、相当一方的だなということは感じるけれども。その場にのまれたっちゃあ、のまれたし。こんなにマスコミに取り上げられるとは思ってもみなかったからね。まぁ、うかつでした」(FNN)等の発言を行っている。この問題で2011年3月14日離党届けを出し、翌15日承認された。


noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。クリ時旅人をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。