見出し画像

【読書】月の裏側(日本文化への視角) その6

出版情報

  • タイトル:月の裏側(日本文化への視角)

  • 著者:クロード・レヴィ=ストロース

  • 翻訳:川田順造

  • 出版社 ‏ : ‎ 中央公論新社 (2014/7/9)

  • 単行本 ‏ : ‎ 176ページ

著者略歴

著者レヴィ=ストロースは著名なフランスの文化人類学者で、代表的な著作は『悲しき熱帯』である。婚姻関係をはじめとする他グループとのやりとりには規則性(構造)がある、と提唱した。構造主義の第一人者でもある。残念なことに2009年に100歳でお亡くなりになっている。生まれたのは1908年。

外側から自己へ:求心性の文化

 著者は日本文化の中に、「外側から自分の側へ、あるいは内へ」という求心性を見出している。体の使い方や政治思想や挨拶など、さまざまな分野に共通して存在するパターン。日本職人は自分の方へ引くように道具を使う。例えば、鉋(かんな)、鋸(のこぎり)、和包丁。一方、西洋や中国では、前に向かって押して切る、削る、あるいは重さで叩き切る。「行って来ます」という挨拶には「必ず戻ってきます」という意味が含意されている。鎌倉時代の禅僧 道元が著した『正法眼蔵』では「仏道を習うというは自己を習うなり」と本質を外に求めるのではなくまず自分を見つめなさい、と説いている

東洋思想を日本はどのように受け入れたか

西洋の人々から見ると、東洋の思想は2つの拒否によって特徴づけられるという。ひとつは主体の拒否。もうひとつは言説の拒否

ヒンドゥー教、道教、仏教とさまざまな…教義にとっては、各々の存在は生物的で心理的な現象のかりそめの寄せ集めにすぎず、一つの「自己」という持続的要素は持っていません虚しい見せかけでしかなく、いずれ必ずばらばらになってしまうのです。

月の裏側 p37

短くてパワフルなお経、といえば般若心経。このお経は体や五感や思考、感情すべてが幻だ、という悟りを得た悦び(悟りもまた幻であると悟ると、自ずと光明が現れるという逆説)を言葉にしたものだ。

東洋的な考え方では…世界の、最終的な本質は、我々には捉えることができません。それは、我々の思考と表現の能力を超越したものです。それについて何も知ることができないのですから、何も言うことができません

月の裏側 p37 - p38

世界の最終的な本質は、我々の思考と表現の能力を超越している」について、ごく一般的な日本人であれば躊躇なく同意するのではないだろうか。一方で世の中には、世界の最終的な本質を科学的に解き明かそうと努力している人々もいる。その人々にとって言葉や数式は定義さえ明確ならば、大いなる味方としているだろう。さらに、そのもう一方で、我々の能力を超越した最終的な世界の本質に到達するために、悟りという伝統な方法も選択肢としてあり得る。現代日本人の中ではだいぶ少数派かもしれない。自分が悟れるかどうかは別問題として、私はそういう方法も大切にしたいと思っている。
 レヴィ=ストロースはこの東洋思想の主体の拒否言説の拒否という2つの拒否に対して、日本はまったく独自のやり方で反応した、と述べている。

主体に対して、日本は確かに、西洋に比べれば大きな重要性は与えていません。…けれども日本人の思考は、この主体を消滅させてしまったようにも思えません主体を原因ではなく一つの結果にするのです。…日本的思考が主体を思い描くやり方は、むしろ求心的であるように思われます。…これは、よりせまい社会的、職業的グループが互いにぴったりとはまりこんでいる結果生じるのです。このようにして、主体は一つの実体となります。つまり、自らの帰属を映し出す、最終的な場となるのです。

月の裏側 p38

上記の「主体を原因ではなく一つの結果にする…日本的思考…は、よりせまい社会的、職業的グループが互いにぴったりとはまりこんでいる結果生じるのです。このようにして、主体は一つの実体となります。つまり、自らの帰属を映し出す、最終的な場となるのです」が実態として何を指しているのか、これを読んだだけでは、私にはわからなかった。具体的に著者はどういうことイメージしていたのかについては、もう少し後で述べようと思う。
 言説の拒否に関しては、日本は明らかに科学技術に関して、「世界を言葉(や数式)で記述(説明)可能である」という立場に立っている。だけれど、言葉の濫用よる腐敗には与しない、と著者はいう1。

…丸山眞男教授は、日本人は昔から美辞麗句を嫌い、推測だけに基づいて論じることを信用せず、直観や経験や実践を重んじる特徴があると述べています。

月の裏側 p39

西洋思想を日本はどのように受け入れたか

 西洋思想では

西洋にとって第一の明証である「私」

月の裏側 p37

つまり西洋では一番疑いようのないものが「私」=主体であるし、

ギリシャ人以来、西洋は、言葉を理性のために用いれば、人は世界を理解できると信じて来ました。しっかりと構成された言説は現実と一致し、事物の秩序に到達し、それを忠実に再現できると考えていたのです。

月の裏側 p37

西洋では言葉(ときには数式)で世界の真理に到達できると信じられていた日本では「進んだ西洋文明」に圧倒された幕末・明治期があり、科学技術の吸収が急務だった。だから科学技術の分野では言葉に力を与えた。だが、その限界を西洋自身も感じているのだろう、マインドフルネスだ、瞑想だ、と東洋の知恵から学ぶことも今は盛んなようだ。日本ではたとえ技術であっても「肝心のところは体で学ぶしかない」という職人魂のようなものは今でも残っているように思うのだが、どうだろう。
 技術としての西洋文化を日本は取り入れた。だけれど、西洋文化の核となる部分を本当の意味で咀嚼できたのだろうか。それに対する著者の答えはノーだ。

デカルトの「われ思うゆえにわれあり」は、厳密には日本語に翻訳不可能であるとさえ言えます。

月の裏側 p38

真実、自由、権利、正義等の抽象概念は、西洋ではなじみ深く、アルファベットの大文字で始める言葉ですが、これらを日本語で説明するのが困難であるのは…重要です。

月の裏側 p38

日本においての悟りとは

 ここで道元の『正法眼蔵』の続きを紹介しよう。

仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

常泉寺のホームページより

レヴィ=ストロースは仙厓の作品と精神性についてもページを割いて語っている。そして仙厓の悟りの道程を下記のように描いている。これは上記の道元の言葉と重なるものがあるのではないか。ぴったりではないにせよ。仙厓も道元も共に禅僧である。前者は臨済宗、後者は曹洞宗と宗派は違うが、生きた時代が500年ほど違うので、もちろん禅の大先輩として仙厓は道元の影響は受けているだろう。著者がいう日本独特の主体の在り方(「主体を原因ではなく一つの結果のする」)p38。この在り方も、脈々と受け継がれている日本の悟りの伝統のひとつの現れとなってはいないだろうか。

英知に至るべき瞑想の実践で…その最終段階で…自分を疑うべきであると気づくはずだ。…己を疑う知は、もはや一つの知ではない。どんなことも認識できない、というこの至高の認識に到達すれば、賢者は解放される。何ものにも意味はないと知ることと、すべてに意味があるかのように、普通の人間として同時代の人々と人生を分かち合うこととは、彼にとっては同じことになる。これが彼が到達した境地である。

月の裏側 p101

著者がいう日本独特の主体の在り方を再掲しよう。道元、仙厓の悟りの道程とある種の相似形になっているのがお分かりいただけるのではないだろうか。こうやって日本人は悟りと世俗を繋いできた。そんなふうにいうこともできるのではないだろうか。

主体を原因ではなく一つの結果にするのです。…日本的思考が主体を思い描くやり方は、むしろ求心的であるように思われます。…これは、よりせまい社会的、職業的グループが互いにぴったりとはまりこんでいる結果生じるのです。このようにして、主体は一つの実体となります。つまり、自らの帰属を映し出す、最終的な場となるのです。

月の裏側 p38


引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。

おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために

ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
読んでいない本も掲載していますが、面白そうだったので、ご参考までに。

著者は「われ思うゆえにわれあり」は日本語には翻訳不可能なのでは、という。そうかも、とも思う。理解するための縁(よすが)。

伝統的な日本仏教の般若心経。宗派によって多少読み方など違うのかな?

こちらはサンスクリットバージョン

チベット語バージョンかな?チベット式の唱え方だと思うけど、サンスクリットなのか、チベット語そのものなのかは、わかりません。ごめんなさい

ダライ・ラマによるHeart Sutra の詠唱。

このホームページの説明がわかりやすかった。

正法眼蔵はボリュームのある書物である。まず一巻手に取ってみるのも。
私も読んでみたい。

出光美術館は仙厓作品が充実しておられるようですね。

もう終わった展覧会ですが、仙厓のユーモラスな作品がいっぱい!どうも、お酒の席で絵と書を描かれたようです。こんな絵を描いてくださるお坊さんにお目にかかってみたいですね!お大尽の酒宴の末席に座らせてもらって。

仙厓の生涯についても学べます。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?