人生は「現世限り」だから ~後悔なく生きれば、死ぬのも怖くない(かも)~
「人はいつか死ぬ」。ごく当たり前のことだが、いつ自分に降りかかってくるかもわからないというのは、とても恐ろしい。「人生は死ぬまでの暇つぶしである」というようなことを言う人もいる。
最も恐ろしいのは、死後の世界について、誰も知らないということである。人類史上、死は普遍的なものだが、その後については誰もわからない。また、臨死体験というものもあるが、あくまで臨死であり、その後意識を回復していることから、本当に死んだわけではない。死後の世界があるどうかについては、何ら保障がないということである。
もちろん、それは「死後の世界」なるものが「存在」した場合の話である。もしかすると、死後は「無」に帰するのかもしれない。それがどういうことなのか、今生きている私には想像もつかない。もしくは、現世を終えたのち、輪廻転生を繰り返し、別の生物として生まれてくるのかもしれない。
今年1月から「ブラッシュアップライフ」というドラマが放送された。自分の人生を何度もやり直しながら「ブラッシュアップ」していくというあらすじである。
主人公・近藤麻美(演・安藤サクラ)は何度か死ぬが、そのたびに、ゼロから自分の人生を生きなおし「ブラッシュアップ」していく。本当は、人間としての来世を期待しているのだが、それがなかなか実現しないので、もう一度自分の人生をやりなおすのである。
これはあくまでフィクションである。だから、本当にそういうことがあるかどうかわからない。また、世界宗教においても新興宗教においても「死後の世界」について語られることは多いが、あくまで現世を生きている人間による「仮説」であり、それが本当に存在するかどうか証明できない。
今のところ、誰も「死後の世界」について、知ることができないのである。
それならば、いっそ「死後の世界」について考えることそのものが無駄なのかもしれない。死ぬのは怖い。しかし、心配したところでどうすることもできない。あくまで、寿命を延ばしたり、気をそらしたりして、問題を先送りすることに集中するほかない。
一般的に、私たちは人生を進めていく過程で、無意識的にそのように振る舞っている。わざわざ言語化するほどのことでもなく、自然とそういうふうに生きている。この文章を書いている私は変わり者なのだろう。
けれども、これだけは書き残しておきたい。
たとえ、死後にどのような世界が待ち受けていようとも、己の欲するところに従って人生を歩んでいければ、死ぬ間際に「ああ、なんてよい人生だったんだろう」と振り返ることができるのではないか。そうすれば、多少は死ぬことへの恐れは小さくなるだろう。
さらに、自分の思った通りに人生を歩んでいくことができているという実感を持ちながら生きることができればそれ以上のことはないと思う。
その答えはそれぞれである。そこに共通の正解を求めれば、不幸な人が出てきてしまい、挙句、後悔の多い人生になってしまう。
私は、なるべく「楽しいこと」や「楽なこと」「ゆとりを得ること」に重きを置いて、人生を送っていきたい。なぜならば、死後にどのような世界が待ち受けているかはわからないが、きっと、現世よりも苦しくて自由の少ない世界が待っているような気がするからである。その上、死後の世界が「無」であったとすれば、自分の意思ではやりたいことが何もできない。
今年の大河ドラマ「どうする家康」では、三河の一向一揆についての描写があった。そこに登場した一向宗の寺院は、まるで極楽浄土を再現したかのような、浮世離れした非日常的な世界観が特色である。「現世の罪は、現世限り」という考え方もまた他の仏教宗派と異なり特徴的である。
「現世の罪」が「現世限り」だとすれば、もしかすると「現世の徳」や「現世の幸せ」も「現世限り」なのかもしれない。そうだとすれば(他人を傷つけない程度に)自分の夢・目標・欲望に正面から向き合うことこそ、現世に悔いを残さないことにつながる。
そして「人生は現世限り」ということを胸に刻みながら、今日から生きていきたいと強く思う。逆に、少々嫌なことがあっても「どうせ人生は現世限りだし」と割り切ることもできるし、一石二鳥である。
後悔のない人生を送ることができたころには、死ぬのが怖くなくなっているかもしれない。もしかすると、それまでに不老不死の研究が進んでいるなんてことがあったらもっとよいのだが…。
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