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#20【自己紹介】6 「見る」ということについて考える

今日の関東は寒いですね。勤労者の皆様、ほんとうにお疲れさまです。
くらたは夕方から出かける用事があるだけなのですが大変億劫です。
天候によって気分が滅入る人が多いのは、狩猟採集の時代からそういう風に感じる人のほうが生存率が高かったから、と、かなり前の『チコちゃんに叱られる』でやっていました。
くらたは寒いのが大の苦手です。冷え性でもあります。
数少ない海外旅行の経験は、ハワイと台湾です。暖かくて最高でした。

くらたの趣味のひとつ HULA

寒いのが苦手なくらたの趣味のひとつは、HULA、フラダンスです。
フラを習い始めて10年以上になります。もともとはスポーツジムで顔なじみになった方に誘われて体験会に行ったのが始まりで、自分で習うつもりはなかったのですが、ご縁とはそういうものかもしれません。
おおらかであたたかいハワイアンミュージックに乗せて身体を動かす気持ちよさが一番の魅力。ダンス経験ゼロで習い始めた最初はへたっぴいな盆踊りのようだったくらたも、少しずつですが前進していると思いたい。
フラは曲で歌われている内容に沿った振り付けになっており、振り付けには一つひとつ意味が込められています。本場ハワイで観る、トップダンサーの踊りの素晴らしさと言ったら!動きのエレガントさと、力強いステップから感じられる生命力が調和して、得も言われぬ魅力に心奪われること間違いなしです。
内田樹さんが外国語学習について繰り返し語っていらっしゃいますが、わたしも、フラを学ぶようになってから英語を真面目に勉強したいと思うようになりました。

つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

『内田樹の研究室』から「外国語学習について」

いやあ改めて内田先生の言うことは面白い。30歳前後で尊敬するメンターから教わって以来10年近いですが、氏が言うことは、私が長らく「知りたかった」「読みたかった」ことばかりでした。氏の文章を乱読したために、何がどこに書いてあったかを思い出すことがもはや不可能な域なのですが、ちょいちょい引用します。

複数の文化圏を空間も時間もかかわりなく自在に闊歩し、それぞれの文化の精華を享受し批評しそれを素材に新たな作品を創り出すことのできるできる能力。こういう能力を私は「異文化コミュニケーション」能力と呼びたい。

『内田樹の研究室』から「2月3日」

こういう異文化コミュニケーション能力を身に着けたいものです。

「見る」ことは相手のエネルギーを奪うこと

さて、ハワイでは、「見る」ことは「相手のエネルギーを奪うこと」と考えられていて、先輩がレッスンしているところを後輩が見ることはできないそうです。なんと。
「見る」ことが相手のエネルギーを奪う、ということは、一般的に日本では感覚的な理解が難しいのではないでしょうか。くらたはそうでした。

くらたが以前学んでいた、松岡正剛さんのISIS編集工学研究所で印象的なことのひとつが、「まなぶ」という日本語は「まねぶ」と同源であり、「まねぶ」は、見たり聞いたりしたことをそっくりまねることであるということでした。まなぶため、まねるためには、見たり聞いたりする必要があるということです。
ギフテッドの方にときどきいらっしゃる「写真記憶」は、見たものをそのまま脳内に写真のようにとどめること。くらたはできたことがありませんが、これができたらもっとたくさんのことを知識として蓄え、もっと複雑な思考を巡らせることができたでしょう……いいなあ。
みること・みたものを記憶することは、人が学ぶうえで根幹となる動作といって間違いはなさそうです。これは経験とも一致し、納得感のある話です。

「みる」には判断も含まれている

一方、「みる」という言葉について、ニッコクには下記のとおり掲載されています。

みる
目によって物の外見、内容などを知る。また、それをもとにして考えたり判断したりする。

小学館『精選版 日本国語大辞典』

上記を見ると、「見る」という行為には、見て知るだけでなく、「判断」まで含まれるようです。そう考えれば、誰かに見られて判断や査定をされること……これはクリエイティブな活動の途上にある人には、慎重に取り扱うべき事態です。

「心無い批評で取り返しのつかない形で損なわれてしまう、そういうところから守られることで育つ美点があるにもかかわらず」というような文章を、先の内田樹さんの書き物で読んだのですが、どこに書いてあったか忘れてしまった上に調べても出てこない。また見つけたら書きますね。
名著『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』(ジュリア・キャメロン)にも同様のことが書かれています。

「どうしてこんな作品を作れるのか」というような疑問を呈する批評は、アーティストを恥ずかしがっている子どものような気分にさせる。駆け出しの作家を建設的に批評しているつもりの好意的な友人も、その作家の作家生命を奪ってしまうことがあるのだ。

『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』(ジュリア・キャメロン/サンマーク出版)

本来、踊りなどの身体表現は観る人があって完成するものでしょうが、それは舞台(ある時点での完成形)での話。本来育つべき美しさを阻害することなく育てるためには、練習の途中で傷つけられることによって失われてしまう回復不能なものを守る必要があるということではないでしょうか。

もちろん、ほかの多くの舞踊や演劇と同じように、フラにおいて踊りの最中の目線は非常に重要であり、ハンドモーションでも「見る」という意味の動きがあります。「見る」ことが身近な動作であるからこそ、そこに深い意味が生まれ、同時に取り扱いに注意しなければならない……。
非常に慎重で理性的な態度
だと、くらたはいま感じています。


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