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【自己紹介】12 「背筋を伸ばされる」ことについて

今日は、映画『哀れなるものたち』について書こうと思ったのですが、ちょっとまとまらないので、いつか書こうと思っていたテーマの短文を2本立てで書くことにします。

きれいごとがすきだ

くらたは、きれいごとが好きです。
アルバイトしていたデパ地下の朝礼で、爪切りチェック・身だしなみチェックの後に「クレド」(ここでは、販売員の心得)を読み上げる時間が好きでした。同じ意見を持つ人をあまり聞いたことがないです。でも、「お客様に最高の価値や体験を提供する」なんて抽象的な美辞麗句をいろんな店のいろんな立場のいろんな年齢の人が、みんなで読み上げるなんてあの場以外にありません。少なくとも、売り上げ金額だけつらつら読み上げられる朝礼(そういう会社も経験した)よりは、背筋を伸ばされるし生命力が賦活されます。

クレドとは、「信条」「志」「約束」を意味するラテン語で、「企業の経営理念を全従業員が体現するための行動指針」として用いられます。

リクルートエージェントホームページから引用

「クレドとは」でWeb検索すると、ほとんど上記の意味がヒットします。現代日本では、まあそうなんだろうなあ。でもたぶん歴史上ではキリスト教信仰に関連する言葉として扱われてきた時間のほうが長い。手元の辞書を引いてみると、

クレド≪名≫(ラテン credo「我は信ず」の意)ミサ通常文五章の中の第三の章の名。また、それにつけた音楽

精選版 日本国語大辞典

クレド〈Credo〉
ラテン語で「われ信ず」の意味で、キリスト教の種々の「信仰宣言」の冒頭の語。信仰宣言全体をもさし、信経(→信条)と訳される。

ブリタニカ国際大百科事典

キリスト教において大切な言葉なのですね。その部分が抜け落ちるというか、洗い流された状態で使うのもどうかなというのが率直な感想です。

くらたはキリスト教徒ではなく、出身高校も公立高校でミッション系ではありませんでしたが、高校合唱のコンクールの自由曲と言えばミサ曲でした。Credoは歌ったことがないですが、Gloria、Agnus Dei、Kyrie、Ave Maria などなど、ラテン語曲をたくさん歌いました。日本で作られた合唱曲でも、隠れキリシタンの歌った聖歌をもとにした千原英喜さんの「おらしょ」など、信仰を歌った曲の切実さ、懇請は胸に迫るものがあります。この「おらしょ」とハビエル・ブストー作曲のAve Mariaがくらたは大好きです。まったく曲調が異なりますが、どちらも音楽の表現力のすごさに圧倒されます。

また、フラにはチャンティングがあります。レッスン前、本番前、聖地に入るときなどに、その時々にふさわしい詞を斉唱します。詞はハワイ語です。
カヒコ(古典フラ)では、イプヘケ(ひょうたん)を鳴らしチャンティングしながら踊ります。同じ教室の友達が新婚のころ、家でカヒコの練習をして夫にとても驚かれたそうです。ちょっと気持ちはわかります。
現地ハワイの方に、フラとともに精神性、文化の核となるものを教えていただく機会に恵まれるたびに、それが彼らにとってどのくらい大切なものかが伝わってくるので、いい加減な気持ちで取り組んではいけないなと背筋が伸びます。

もう引用しすぎていますが、内田樹さんもきれいごと推奨者です。「内田樹 きれいごと」で検索するとたくさん記事が出てきます。ご興味あればぜひ。

「きれいごと」をリアルかつクールに演じ切れる人間が、一定数いないと、社会は保たない。

内田樹の研究室「痩我慢合戦」2009年2月23日

くらたが「きれいごと」や現代的な意味での「クレド」について考えるとき、こうしたことがイメージとして想起され、背筋を伸ばせと言ってくれるのです。それは存外悪いものではありません。

ペンネームの話

突然ですが、「くらた」はペンネームです。
くらたが長年愛読している大好きな漫画『ディア マイン』の主人公・倉田咲十子(くらたさとこ)ちゃんの苗字を拝借しています。
大切な人を大切にしよう、という愛にあふれたマンガです。これも観る人によっては「きれいごと」かもしれませんね。

くらたの手元にある、花とゆめコミックス版最終巻の4巻を今めくったら、2001年8月25日第一刷発行となっていました。OH、20年以上うちにいるのね。ありがとう『ディア マイン』。

4巻の柱コラムで作者の高尾滋さんがこの咲十子ちゃんについて、「幸せであろうと努め思うことはステキだと思っていたりする…かもしれない」と書いていらっしゃいます。実際この咲十子ちゃんもまさに、理不尽な境遇でも、めげたりへこたれたり悩んだりしながらも、自然体でしなやかに前進していく、それでいて嫌味のないキャラクター。咲っていう字の入っている名前って素敵ですよね、林咲希さんとか杉咲花さんとか。
また高尾先生の「だと思っていたりする…かもしれない」という逡巡、奥ゆかしさも、この作品の柔らかくて温かい雰囲気と通底しています。本当に核心的なことは自信なさげに、おずおずと差し出されるものだと、というのは誰かの受け売りですが、誰だったか忘れるくらい内面化してしまいました。わたしの中でこの作品や倉田咲十子ちゃんは、まるっとそういう柔らかくて温かいイメージでとらえられています。

いっぽうで、文章を書く・言葉を扱うということは、センシティブなことだと思っていて。言葉はコミュニケーションに欠かせないツールでありながら、同時に取扱注意の危険物の側面もあります。
言葉の刃で人を傷つけて取り返しのつかない事態になる事例は、枚挙にいとまがありません。また、自分が発した言葉で自分を傷つけることもあります。先日書いた講演会で講師の先生が、「話をすることはエネルギーを使う。大きなものを吐き出すと自分が壊れることもある」という話をされていて、改めて再認識しました。
自分が書いたものを他人様に読んでいただける場に置くということは、そういう危険性にも自覚的であらねばならない。それに、一歩間違えれば、ただの罵詈雑言をここに垂れ流すことにもなりかねない。

それを自制するために、わたしにとって大切な、このキャラクターの名前を借りることにしました。咲十子ちゃんの名前を借りておいて、「今日職場の誰それが〇〇って言ってきた。むかついた。〇んでしまえ!」みたいなことは書けません。しまった、事例が極端すぎて「それは借りなくてもやるなよ」という感想しか持てないですね、でも実際わたしは攻撃的で感情的な人間なので、そういうことをやらかす可能性はゼロとは言えない。

これは蛇足ですが、最初はまるっと「くらたさとこ」と名乗ろうと思ったのですが、くらたの本名もKやSなどのソリッドな摩擦音なので、どうせ別名を名乗るなら「ナオ・ナオコ・ナオミ」「ヤエ・ヤヨイ」「アヤ」みたいに響きの柔らかいNやY、母音がいいなあ、とか、またはわたしが生まれた際に候補に挙がっていたのに選ばれなかった「ちひろ」に日の目を見せてやりたい気もする、とか、どれに決めても何かしら後悔しそうだったので、いま決めるのはやめました。名前ってこう……何かしらイメージを喚起しますしね。

閑話休題。
ともあれ、本名とはまったく違う名前を付けることで、わたし個人と書く人格との間に距離が生まれ、多少なりとも客観的に文章を見て、公共の場に置くに足る補正を加える効果が表れている気がします。
一人称が「くらた」なのも、こまめに自制の戒めを思い出し、背筋を伸ばすためという理由が、あったりなかったりするのかもしれません。

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