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「文章では断定表現を使いましょう」と私はちっとも思わない、今のところは。


"文章を書くときには、断定表現を使いましょう。「〜だと思います」を多用した文章では、伝えたいことが曖昧になってしまいます。"


……みたいなことを、小学校か高校か、教育課程のどこだったかは忘れたけど、確かに教えられた気がする。

そういう教えが前提にあるからだと思うのだけど、文章にまつわるお悩みを募集していた際に、「断定表現を使うとキツく伝わってしまわないか心配」という声がよく出てくる。いやこれ、本当によく聞く悩みなのだ。


そして私もいっとき、そうしたことに悩んでいた。けど、今はあまり悩んでいない。というか、そもそも「断定表現を使わなきゃいけない」という前提側がおかしいんじゃないか、と思っている。いや、ここは自己矛盾を承知であえて断言したいのだけど、明らかにおかしい。


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だって、私たちはどれほどのことを断言出来るのだろうか。

私の気持ちはいつだって曖昧だし、主義主張はそのときの状況によって、もしくは時代の空気によって微妙に変わってくる。「なんて気遣いの出来る人なの!」と思っていた人が、相手が変わればパワハラをかましていたこともよくあるし、昨年信じていたものが今年になって覆ることもある。「正しい」とされていたことも、時が経過すれば「やっぱりあれは間違っていた」となることだってあるじゃない。


もっとも、昔は文章を書き発表する立場というのがかなり限られていたからこそ、断定することが一般的だったのかもしれない。研究者や評論家、何かしらの分野で先生と呼ばれる人たちが書く一般書の場合、読者との間には上下関係が生まれてくるし、読者はなにかしらの教えを請おうと期待していることも多かろう。そうした場合に「○○だと思います」の連発だと、読んでる側も不安になってきてしまう。

ただ、今こうやってインターネットで文章を書いている側の多くは、ふつうの人だ。ふつうの人エッセイストである私は、大学院を出ていないし、先生と呼ばれるような立場でもない。なにか一つを極めている……といったような専門性もあまりない。

そんな私が本を出すということになったとき、家族は「アンタみたいなふつうの人が、なんで……」と驚いていたが、今はふつうの人でも本も出せてしまう時代らしいので、そこは堪忍していただきたい。でもだからこそ、視点の異なる友人になれれば嬉しいと思っているのだけれど。

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もちろん、現状として共通認識が取れていること── たとえば、「私は人間である」ということや、「日本には四季がある」といったことを、わざわざ「だと思う」「かもしれない」と言うのはあまりにも野暮ったい。

もっとも、千年後には日本の四季は失われているかもしれないし、もしかしたら人間という概念も変化しているかもしれないけれど、それはそのときの読者が21世紀に書かれた古典を読むにあたって、「へぇ、そんな時代もあったのか」と学んでくれればそれでいい。


けれども、自分の意見や、それなりに速い速度で変わりゆくものに対して断定表現を使うことを、私はかなり避けている。それも、避けていると明らかにバレないように避けている。その仔細を書いてしまうと、私の文章を読んでもらう折に「あ、ここも断定を避けてる!」「こっちも避けてる!」と内容に集中できなくなってしまう気もするのだけれど……でもネタとしてオモロい気がするので、今回はそのあたりを書いてみようかな、と。



(1)「○○だと思う」の言い換え


まずは超頻出。「〇〇だと思う」について、私は出来る限りそれを使わず、でも似たような感じのことを言っている。たとえば……

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