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aki先生インドネシアで入院する 2/2

3日目、回数はずっと減ってもしつこく下痢は続く。主治医のDidit先生は中国系の優しい優しいおじさん(私と同じくらいの年恰好💦)だ。「明日はエコー検査がありますから、午前3時からプアサ(絶食)し、7時から排尿も控えて8時からのエコー検査に備えてくださいね。」と、前夜22時に血圧を測りに来たナースが早口(本人にとっては日本人の私にわかるようにゆっくり言った)で説明してくれた時、私は目をパチクリ、何の目的で何をせよ、と言われているのかがさっぱりわからず、何度も聞き返して若い彼女をイライラさせた。もちろん日本語ではいとも簡単、英語でも一回くらい聞き返せば飲み込めたと思う。USG(ウーエスゲー)としきりに言うのは、ユニバーサルスタジオ系遊園地ではなく、エコー検査だと彼女が何度も繰り返す仕草で知った。わかるのは日付と時間、そこで検査を実施するということだけで、あとは医療用語だから、外国人には用がなければ知らないままでも構わない用語をあれこれ使う彼女に、病気の辛さも手伝って、少し強く言い返してしまった。彼女に患者の説得を任された明日朝のイベントの目的が、尿の検査かエコー検査か分からない私は、彼女の態度を少し誤解してしまった。若い彼女も必死なのである。最近インドネシア人の女性に愉快でない思いをさせられて、特にムスリムの女性の裏表ある不正直な態度が不誠実に映っていたこともあったかもしれない。もともと表面だけ感じのいい腹の底に別な感情を持つ人が苦手だ。どっちかと言うと見た目に仏頂面でも中身が柔らかい人の方が好きだ。自分も正直に振る舞うことが多い。しばらく前、ガブリエルが、日本人で正直な人は珍しいと私のことを評して言った。

膀胱は幾らかの尿が溜まっていないと画像がよく映らないので尿を我慢しておくべきことを、20代の彼女が、尿を表すkencingもエコー検査を表すUSGも分からない外国人に納得させる言葉のストックが十分になかった。一方で腸の感染症の疑いで入院した外国人である私も、腸や肝臓、胆嚢はともかく、膀胱のエコーを撮るとは思いもかけない。(先生から事前に治療方針を十分聞いておくのだった。)さらに、イスラム同僚も生徒もこぞって実施中の「プアサ」が宗教用語ではなく、信仰目的であれ、医療目的であれ、病気のために結果的に絶食となった場合も含めて、すべての絶食行為を言い、絶飲でないこともある、と、この時行間で理解した。

大いに譲ってエコーのための絶食は理解するがurin(尿)を出さない目的がわからない、と私は彼女に2回言った。そもそもその節、何でもかんでも排出しようと躍起になっている私の腸の意思を私がコントロールできる状態ではない。トイレに行けば全部出てしまう。彼女は尿意の我慢の理由をまた専門用語で説明し出したが、ボタンのかけちがいをすまいと懸命になればなるほど、彼女にとっての私が、厄介で言葉の分からない気難しいおばさんになっていくのだった。私はBahasa(語学)が不十分だから、と言うと、彼女は、いいえ、私の説明が悪いんです、と私から目を逸らせた。この病室に来て私を納得させる役は、ナースステーションのみなさん全員が喜んで携わりたがる役ではないことを、つまり扱いやすい患者でないことを済まなく思った。

インドネシア人もけっこう語学コンプレックスをもつ人たちだ。優秀な人ほど意外にノンバーバルコミュニケが意思疎通の70%を占めるということを認めない。日本人もそうだ。意思疎通において最も大切なのは言葉ではない。まずは言葉はわからないで当然と受容する気持ちだと思う。日本人はそれができずに長い間苦しんできた。でも実際私は4年間も、母語の発話もまだの子どもたちと日本語抜きで図工や理科や器楽を一緒に楽しんできたのである。自分の英語が通じないと思っている人は試みの機会がまだ少なくせっかちなだけの気がする。どんな反応をされようと焦らず何度も伝えようと試せば、どうすれば通じるかが分かってくる。赤ちゃんは人見知りするが、その時期を過ぎるとさまざまな人を受け入れる。成長してだんだんとまた受け入れなくなるのは、社会性が発達成長して、人と自分を比べたりスコアを突きつけられたり、とネガティブな情報を刷り込まれるせいである。第二言語習得理論はまだまだ二つ目以降の言語習得がなぜ容易でないかを解明できていないが、社会的背景と臨界期云々よりも、心因的なことが作用していると私は考えている。実際インドネシアでは多くの人がバイリンガルである。地方語とインドネシア語は文法や語彙が全く異なり、異なる地方語間では通じない。だが公用語のインドネシア語だけを使って会話する人は珍しい。ソロではジャワ語が家庭語で、オフィスではジャワ語とインドネシア語のチャンポン、生徒たちはさらにその若者言葉なので、私はまだぜんぜんついていけない。英語や日本語が日常会話程度に可能な人はかなりのインテリである。だが病院で私の訴えを相手に理解してもらうために、わずか数千のボキャブラリと助けてほしいという表情以上のものは必要なかった。相手も人間だと信じる気持ちが大事だ。
もしそれとこれとは扱い情報の専門度が違うのではと言うのであれば、日本の病院に備え付けの「超音波検査を予定の患者様へ」という紙に書いたポスターやパンフレットでもあれば、それを渡してGoogle翻訳でカメラ入力すれば一発で理解できるのだが、このキレイなキレイな病院にはそのような情報は一切掲示されておらず、患者への指示はナースの説明がすべてだ。それに青い線の上を通ってフロアAで検査を受けてくださいなどという患者自身を動かす日本の大学病院式の省人化はされていない。検査は毎回誰かしらナースを腰元のように同道させ、別の言い方では固定フロアに軟禁して行動を制限する。同じ棟にあるコンビニにさえ行かせてもらえない。

何としても私をサポートしようと仕事中でも折り返してくれるガブリエルのメールのアドバイスと、エコー検査において膀胱に尿を溜める理由、ドクターが私の膀胱のエコー画像もほしい理由の可能性をネットで調べて、ナースの真意を知った私は分からず屋を済まなく思った。それで彼女の言う通りにしようとしたが、我慢しようにも、やはり朝一番腸が動くので、トイレに行ったら、案の定、排便だけして排尿は堪えるという芸当は到底できようもなかった。結局、過敏な蠕動が収まるのを待つため検査を1時間遅らせてもらうことになった。

エコー検査に同道してくれた別のナースがきっかけで、全員同じ色のジルバブを身につけてまるでウンパルンパみたいに見えていた彼女たちが、ようやく生身の人間と思えるようになった。歩けるのに、とあくまで気難しい私を説得して車椅子に座らせた時、点滴の場所をなぜ手の甲としないのか?と少しキツい言い方で尋ねる彼女に、アンタに言われる筋合いじゃないよと言うのと同じトーンで、手の甲が痛くて耐えられないから、と答えたら、彼女は少し考える風で、ご出身はどちら?お一人で入院ですか?と聞いて来た。インドネシアでは1人の家族の付き添いもなく入院することは結構寂しいことなのだと、その時わかった。私の病室ばかりではなく、どの個室の病室にも付き添い用ベッドがあるのだった。それに、こうまで英語が通じない私立病院に日本人が入院したケースが年に数例以上あるとは思えなかった。エコー室の前まで車椅子を押してくれた彼女に、私の髪を結えてくれるように頼んだら、お安い御用ですと渡したゴムで結えながら、2回で良いですか、もう1回巻きますか?と聞いてくれた。
そして検査室で、ムスリムの女性エコー検査技師が早口で私に質問するのを遮って、ゆっくりお話しください、と促してくれた時、やっと味方なのだと感じた。後で知ったが、日本では臨床検査の現場のプロだが、この病院の検査技師は博士で偉い人なのである。戻りのエレベーターでDidit先生と乗り合わせ、お加減はいかがですか、ミセス?ええ、もうだいぶ良くなりました、先生ありがとうございます、というやり取りを、車椅子の後ろでナースが黙ってにっこりして聞いていると、そう思った方が病院生活への気苦労は減る。それに、入院時に男性の医師が良いか女性の医師が良いか聞かれた時、どちらでもよいと答えて良かった。これは宗教上の男女分別のために用意されている選択肢だと思うが、私にとっては男女関係なく最適な人物が当たってくれることに越したことはない。Didit先生は、念入りにゴム手袋の上からアルコール消毒した上で、聴診も触診も服の上から行った。


エコー画像は退院時にファイルにして渡してくれる

混乱した頭で、次から次へといろいろな手続きに対応しなければならなかった私の、病院に入っても四面楚歌な気持ちが続いた理由にもう一つ、保険調査のことがあった。病室を出入りするのはナースだけではない。日本で言うところの病院付医療ソーシャルワーカーと思しき年配の女性が、入院初日に、私が詐病である可能性をつかもうと誘導尋問しに来た。最初から最後まで何のための尋問か明らかにせず、前述の一連の悪戦苦闘の経過を私から巧みに引き出した上で、単なる働き過ぎによる疲労じゃないのですかね、と最後に意地悪くハシゴをサッと外して本性を表すような態度が癪に触って、無感情でサラリとかわせない未熟さがまだ自分に残っていたと思うと、しぶる腹からまたトイレに駆け込みたくなるようで、自分が嫌になる場面があった。39.7°高熱とか異常な血圧低下や平常時の1.6倍の頻脈は単なる疲労ではあり得ない、と二度きっぱり話して彼女を黙らせなければならなかった。後から聞いたところによると、インドネシアの個人保険は入院しないと適用されないものもあるそうで、何らかのdutyをスキップするか保険金目的でウソをついて入院する例もあるだろう。来たのは或いは保険会社の雇っている調査員かもしれない。しかし私が不快に思うかどうかは別として、彼女も悪意で事をなしているのではなく、ただ自分の仕事をしているだけなのだ。

インドネシアに来てからいろいろあってもともと硬直していた私に、最初に感謝の気持ちを思い出させてくれたのは厨房だ。初日に栄養士が聞き取りに来てくれた内容がシールになって毎回の私のすべての養生食に貼られてきたが、いつも普通食と養生食の両方が運ばれて来た。どれかだけでも食べて、もし足りなければ両方どうぞ、ということなのだ。健康な時でも2人前は到底完食できないところ、初日は一膳のインドネシア米の五分粥の1/3を持って来た梅干しでようやく飲み込んだが、当然のように腸は拒否した。米の匂いさえ我慢できないほどで、丸二日は汁物の汁の上澄みとお粥の半分とリンゴだけで過ごした。ほとんど手付かずで膳が戻った時、厨房ではそれを確認しただろうか。3日目まで私はそれに頓着しなかった。大勢の分をいちいち個々に配慮している訳はないと思っていたからだ。2日目の夜、入院して四膳目、牛肉のしぐれ煮様のおかずを口に入れた時、再度の下痢が怖くて食べない私に何とか食べさせようと工夫したに違いない醤油の味がした。日本の高速道路のサービスエリアのフードコートでパックで売っているお惣菜や中学の頃の給食を思い出させる味だった。何を見て味付けしてくれたのか、その膳に載っている品々は以降ほとんど日本食と呼べる内容と盛り付けになった。サラダにかかっているマヨネーズは何とかキューピーのサウザンアイランドを再現しようとした味がした。食材は、鶏ムネ、牛の赤身部位、豆腐、小松菜、にんじん、キャベツ、トマト、サラダ菜と非常に限られている。普通食は揚げ物やテンペ、茹で野菜、ご飯とサンバルで、だいたい唐辛子を微量に含むのでほとんど手をつけなかったが、養生食は優しい味付けだった。美味しくても半量で腸がまたギブアップしたが、それでもそれが翌日につながり、翌朝から私の腸は養生食を60%、80%、100%とだんだん受容していった。厨房と私は言語外のコミュニケをした、つまりお互いを理解しようとした。味覚という言葉で。


チキンナゲットが嬉しかった

4日目通算九膳目を完食した時、食後に祈りを捧げた。小鉢に盛られた鶏の胸肉の煮物は薄味の醤油とニンニクで味をつけたもので、お粥に良く合った。インドネシア人を食育に関しても衛生面でも全く信用できないと思って梅干しでお粥だけを飲み込んでいた私に、その認識を改める時が来た。病院というところは入院患者の生殺与奪を握っている。薬にしろ食べ物にしろ一時的に完全に他人に侵襲を渡さなければならない。ハエがたかる食べ物を売るパサールや、路上で皿洗いして営業するワルンなどなど不潔極まりないシーンをあちこちで見て辟易していた私は、清潔に管理された環境がインドネシアの病院に用意されていると安心して入院したわけではなかった。けれども、10人の敵もいれば10人の味方もいる、といつか叔母がアドバイスしてくれたように、たとえどんなチヤホヤされようと半分はお世辞だし、どんなしょっぱい環境でも誰かが見ていて助け舟を出してくれるものだ。それは日本でもフランスでもアメリカでも、ここインドネシアでも同じなのだ。誰にでも好かれるというのは本当ではないし、誰からも嫌われるということもない。

その次の十膳目では、甘辛いオイスターソースのかかったチキンナゲットと耳を落とした食パンとタマネギサラダの半分くらい食べた時、私の顔も見えずに、毎回戻って来た膳をチェックして、小鳥のように僅かしか食べないこの日本人のミセスが何をどれだけ食べたかと、何なら口に合うのかと親のように配慮してくれるスタッフがこの病院の厨房にいることを感じた。実際の所そうではないかも知れない。食欲が回復して来たので味付けを感じられるようになっただけも知れない。それでも、ドクターとナース、検査技師、介護士、清掃スタッフ、厨房、薬局までワンチームとなって24時間ずっと病棟での私の回復を助けてくれている気がした。私は病院スタッフとしては数ヶ月を埼玉県の精神科クリニックのデイケアで研修生として過ごしたのみだが、毎朝、個々のクライアントについて情報を共有するケースカンファレンスミーティングがあり、自分の観察内容もそこでスタッフ全員に共有された。カップラーメンとコーヒーばかりのメタボで私を心配させた水中毒のあの統合失調症のクライアントは今どうしているだろうか。

入院当初は水を飲んでも過敏に排泄してしまっていた私の腸はこうして少しづつ癒され、いっとき逆転したバイタル(最高血圧<心拍数の状態)は正常に戻り、緊張にパンパンなっていた心身が寛ぎ、入眠時間が早くなっていった。初日は気晴らしに動画さえ観る気になれず、音楽も聴く気になれず、無音の中、ぼんやり天井やカーテンを見つめ、廊下から聞こえる物音だけが外からの刺激のように思えていたが、身体を病気の嵐が駆け抜けた後は少しづつメールで外の人々と連絡を取った。入院翌朝に来てくれた同僚たちには、不快を隠してカラ元気を見せた後グッタリしてしまったが(見舞いを断ったつもりが、突進型の上司がさっさと車を立てて大勢で様子を見に来た。どうせ私のみっともない写真を、結構元気そうだぜ、とバラまくデリ欠けで遠慮のない連中だ)、3日目の夜、ガブリエルが私のリクエスト通り、髪を片手で纏められるクリップ式のヘアアクセサリーを買って来てくれた頃には平常心を取り戻していた。点滴を肘の内側にするなら、片手は使えなくなることを覚悟しておかなければならないが、寝たり起きたり髪を纏めたり解いたりのたびにナースコールするのが億劫だった。こういうことが気安く頼める仲良しが任地ソロにできた経緯はまた別途書こうと思う。


中に餡が入っている饅頭のおやつ

エコー検査の結果、私の五臓六腑は完璧に機能しており腸にガスが多いだけだった。JICAに選ばれたのだから内臓には自信があった。下痢と高熱の原因から内臓の器質的疾患の可能性が排除されたので、3日目の夜からようやくDidit先生は私に抗生物質の投与を始めた。便からの培養検査は何週間もかかるし、結局は判明しないことも多い。日本でもそうである。感染性胃腸炎の原因がウィルスの場合は日本でも原因がわからないことが多く、対症療法が中心になる。他の可能性を排除しながら治療方法を限定していくそうだ。白血球や好中球の増加は見られず、リンパ球が増加していることから、菌感染の可能性は低いと先生は見ているので、原因菌への対処ではない。外国人で既往歴もわからない、いい歳のおばさんである私の治癒力を穏やかに正攻法で助ける作戦を先生は選んだ。私の回復力が先生としても1番の頼みなのである。私はアスリートで、既往症も薬のアレルギーもなく、これが人生初めての入院であると初日にお伝えした。コレステロールがやや高い以外は健康そのものの身体だった。患者の人格を尊重しつつ優しく慰めて励ましてくれるタイプの先生で本当に良かった。

4日目から便は内容も回数も許容範囲になって来た。Didit先生が回診した時にそれを言うとニコニコして、このまま再度後戻りしなければ明日退院を検討しましょう、とのこと。食べ物が美味しいですと言うと、もっとニコニコなさって、それが何よりですとうなづきながら仰った。この先生に出会えたこと、私のプロファイリングがこの病院に残ったことで、今後1年半のソロでの病気対処への不安は払拭された。困ったら24時間365日対応のここへ来て先生を指名すれば良い。

インドネシアでは圧力式ウォシュレットがだいたいのトイレに付いている。あまりにも頻回に洗うとお尻は酷いことになるし、ジェット噴射するからウォシュレットの使い方には気をつけなければならない。かと言って再生紙利用のトイペは不純物を多く含むし皮脂を取って身体を傷つけやすい。トイペは水分を吸わせるだけ、トイレに流せないので纏めて廃棄する。昔のオムツは布製だったが、お尻拭きも本当は清潔な古い介護寝巻きや晒を裂いたものなどが望ましいと思う。これは子育て経験のある繊維業界出身の私が言うので、読者の方は参考にされたい。


お見舞いは果物が定番

5日目、明け方隣室に急患が入って廊下が慌ただしく目覚めたが、また眠ってしまい、朝食が運ばれて来ても動けないほど寝入っていた。眠る力が戻って来て良かった。Didit先生が朝と午後の二度来られて、寝ぼけている私に、まだ眠っていて良いが退院したければ今日してもいいし、もう一晩休みたければそれでも良いと言ってくださった。結局はその日のうちに退院することにした。私はどうでも自分で調理して自分の味で食べたいのだった。いつか身体が言うことを効かなくなるまで、できるだけ自分で食べるものは自分で調理して食べたいと思っている。これは私の持論で、賛否あると思うが、大人は口に入るものは原則自分で材料調達と調理を管理して自分が何を食べたかわかっているべきだと思う。それができる、する、又はしようとするのが大人だと思っている。外食は滅多にせず、まな板も包丁もフキンも毎日消毒しているから、それでも感染するなら仕方がない。

日本時間の朝10時半からイースターの礼拝があったので、インターネットから参加した。バプテストは、礼拝に出ることを、礼拝を守ると言う。この日、西南学院バプテスト教会の西脇牧師の選んだテーマは、マタイの11章25節から30節で、「私はあなたを休ませるために来た」というイエスの言葉の解釈だった。私のクビキを負いなさい、私のは軽いから、と、イエスは代わりに私の重荷を負うと約束した。クビキとは、牛が労働する時に首にかける装具のことだ。そうだった、私は休息が必要だった。気が張り詰めていた。

退院許可が出たので宿舎へ帰る、と友達のナオミにメールすると、何時に出て何時につくのかしつこく聞いてきた。ソロでインテリアショップを経営している日曜も忙しい彼女は、前日見舞いに来てくれるつもりが土砂降りでかなわず、退院の夜、晴れているのでどうでもミニバイクを飛ばして私に会いに来るつもりだった。遠慮する人にはこちらも遠慮するが、遠慮のない人にはこちらも遠慮しなくて良いと思う。冷蔵庫の中身がどれだけマトモかわからないので、病院内のコンビニに寄ったが、食べられそうなものはどら焼きしかなく、それを二つ買ってあとはナオミをアテにしてアプリでタクシーに乗り込んだ。英語か日本語が少しでもできるバイリンガルの友だちはありがたい。2つ合わせると相当の語彙量になってだいたい大人の会話に近くなる。宿舎に帰り着いてまもなく、ナオミがリンゴとみかんを各々1キロづつバイクの足元に積んでやって来た。幸い留守中に停電がなかったようで、冷蔵庫のパパイヤや冷凍うどんは無事だった。


良くなって良かったと開口一番

ナオミは私の宿舎の様子を見て半分安心し、半分心配し、少し四方山話をしてまた忙しく帰って行った。今のところ唯一のムスリムの、ワーママの友人だ。社会人の息子とまだ大学生の息子と娘が合計3人、インドネシア中を飛び回るインテリアショップのバイヤーである。家族もなく病院から家に帰った後が大変であろう、とやって来てくれた友人は初めてである。しかも先月ジャカルタへ出張した際に飛行機の中で隣に乗り合わせた時が最初で、ナオミに会うのはまだ2度目だったのだ。

東京で桜の咲いた日、私は回復した。

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