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aki先生インドネシアで涙する

この間、心のみずみずしい人に出会うことが何度かあった。日本にいて忙しすぎて、周囲の人の心の動きが読めなくて、寄り添う言葉をうまくかけることができない日々を残念に思っていたから、協力隊に志願して自分を見つめ直す時間をもらううち、資本主義社会とはなんとも忙しく、物質的な不足なくありがたい反面、物質で充足できないことがあるからこそ寄り添おうとする人たちから差し伸べられた手に、狭量な自分が気づけず過ごしてきたことも多いと、つくづく思った。インドネシアに来て早くも1ヶ月、とにかくとにかくありがたく感謝してお世話になっている。ここまで励ましてくれて、過分な餞別とともに送り出してくれた日本の皆さんに、毎日必ずLINEで無事を祈るメッセージを送ってくれて、もはや私の姉であるインドネシア語の教授レニー先生に、日本のみなさんが負担してくれている税金に、日本国政府の温情に、インドネシアで迎えてくれた全ての人たちに、ここまで同道してくれ、たくさん差し入れを置いて行ってくれた仲間に、ジョグジャで新しく出会った語学学校の人たちに、父の形見のペンダントを新品同様に磨きあげてくれた銀細工職人さんに、必ず降りて荷物を載せてくれるタクシーの運転手さんに、私の果物の量り方が下手でやり直すスーパーの店員さんに、まごまごして会員アプリがスムーズに作れないのを手伝ってくれるカバン屋のスタッフさんに、病気でひとり部屋に寝ていたとき果物の盛り合わせを持って訪ねてくれた支配人に、、、数あらぬ身にすでに数えきれないくらいたくさんの方にお世話になって、静かにホテルでひとり誕生日を迎えた。

中でも、ホームステイ先の奥さんの若い従妹が、夕暮れ時にちょっとだけ寄って、リビングのピアノに腰掛け、エディット・ピアフのLa vie en roseと宇多田ヒカルのFirst Loveを、私のために弾いてくれたときには、ポロとこぼれてしまった。その温かさ、デリケートさ、瑞々しさ、心の柔らかさ、彼女の素敵な、間違いなく今まで聴いたFirst Loveの中でいちばん素敵な演奏に合わせて歌いながら。泣かずにおれないような彼女の誠実さを感じてしまって、ああここにも一生懸命人間をやって生きている人がいる、そう思った。その演奏にみえる素晴らしい感受性に私は胸一杯になった。彼女の名前はウティエン、たぶんその成熟した受け答えから40くらいだ。体重どのくらいだろう。なかなか深刻なメタボリック症候群だ。両親は、家族は、と訊くと、すでに亡くなった、近所に一人で住んでいると言う。ピアノの個人教授をしている。なぜ時折ふらりと従姉の家を訪れて短いおしゃべりをして帰るのか、理解できる気がした。大家族で寄り添って生きる人がまだ多数派であるから、少子化が急速に始まっているとはいえ、インドネシアでは、一人っ子とか一人暮らしというのは、まだまだ少数派だ。奥さんも言葉の少なめの彼女が時々訪れるのを喜んでおり、彼女が小さい頃は水泳をしていたことを話して私たちを近づけようとした。私が私の下手なウクレレでLa vie en roseを披露したり、それでも私の伴奏でお付き合いにMy favorite thingsとかYou are my sunshineを一緒に歌って夕方のひと時を寛いで過ごしていることを奥さんから聞いて、ウティエンは穏やかに仲間入りをしてくれた。知らない国に初めてやって来て、初めて出会う人たちの中で一人誰かがが外国人として過ごしつつ仲間に入れてもらおうとしているとき、私はこのように優しくエンパシーを持って寄り添うことができたことがあっただろうか。マザーもファザーもウティエンも私を理解しようとたいへんに心を砕いてくれていた。


奥の花柄の布のカバーがカワイのピアノ

本当の寂しさを知っている人が弾くピアノは、どこかガードを固くしつつ表面愛想良い客人として振る舞う私の心の柔らかい場所にそっと温かい手を添えるかのようだ。無理しなくていい、貴女は寂しい、当たり前である、と。貴女には夫もなく、両親だってもういないのだから。もちろんマザーもファザーもウティエンも口に出して言うことはない。でも、言葉はなくてもそれを感じた。よく人と人とのコミュニケーションはノンバーバルが70%で、言葉はわずか30%と言うが、その夜のコミュニケーションは言葉は10%だったかもしれない。このような人と人との心の触れ合いが、この先、何度あるだろうか。ウティエンのpricelessな演奏に、私はフランス式bisouで感謝を表現したが、自分の不器用さに内心どうにも戸惑った。そうだった、私は寂しいのだった。だからこの国へ来たのだった。たぶん。


またいつでもいらっしゃい、とマザー

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