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村上春樹と村上龍。文学とエンターテイメント

六本目の投稿は、読書の話。
村上春樹に触れるので、彼が作中に取り上げたレイデオ・ヘッド(レディオではないのだ)をBGMに選んでみました。

歳をとってできなくなったことといえば、本が読めなくなったというのがかなり大きい。
ハルキストという呼称は今も全然馴染めないけれども、村上春樹をこよなく愛していて、愛しすぎる為にある時からエッセイと翻訳を読まなくなったくらいである。
新刊が出るたびに予約して第一刷を手に入れるようになってから、何年になるだろう。ねじまき鳥までは後追いで、海辺のカフカからリアタイになった。海辺のカフカのときは、質問のメールボックスがあり、インターネット環境が自宅になかった為にネカフェに足繁く通っては、取り上げもらえそうな質問を捻り出して、送っていた。確か一つ位採用されたはずだけど、正直覚えていない。それくらい、どうでもいい質問だった。
でも、私のした質問にリアルタイムで回答してもらえるかもしれない、という体験は同時代のこの世に生を受けたからできることであって、繋がっている。幸せだと思ったことは覚えている。
騎士団長殺しまでは繰り返し読んだものの、最新刊、街とその不確かな壁は、実はまだ読んでいない。発売日に本屋に行き、第一刷は手に入れたものの、ページを開く意欲を持てないでいた。読めない1番の原因は体力の衰えだと思う。物語に入り込む精神力を支える体力がなくなってしまった。村上春樹は、結構最近までトライアスロンをしたり、マラソンをしたり、長距離を走っているというのは有名な話だけど、若い頃からそういう鍛錬を続けるというのは本当に大事なことなんだなと思う。健全な精神は健全な肉体に宿る、的な標語は数限りなくあるけれども、間違いないことだと歳をとって実感している。私より33も歳上の村上春樹が、読むよりずっと集中力と体力を有する作品を産み出すおこないをしつづけているのに、若年である私は読むということすらできなくなっている。
同時期の作家で村上龍がいる。村上春樹より3歳若い。私はほとんどテレビを見ない(年単位で電源をつけない、来客があった時につける程度である)のだが、何年か前に村上龍が司会を務めるカンブリア宮殿を見て唖然としてしまった。口角がだらりと下がり、発言は不明瞭、番組のほとんどの司会を小池栄子に託し、姿勢も悪く淀んだ眼で宙を見ていた。私の見た回で村上龍はほとんど喋らず、話したエピソードは村上春樹と奥さんの陽子さんに自宅に招かれてコーヒーを入れてもらったのが嬉しかったというものだった。村上龍と村上春樹の間に何があったのかは知らないが、唯一の共著「ウォークドントラン」は、村上春樹の意向で出版差し止めになっており、既刊本はプレミアム価格で取り引きされている。私は村上春樹の意向に沿うように、敢えて手に入れず、購入には至っていない。村上春樹は例えば読者とのメールのやり取りの中で、車の免許を取らないと断言していたのに、免許を取得して車の運転を作中でも魅力的に描いているのだが、免許を取らないと村上春樹がいうから自分も免許を取らなかったのにどうしてくれる?というような、半ば当たり屋的、冗談の要素があるメールに、至極正面から、自分は未熟で前に発言した内容を守ると事ができなかった、申し訳ないという趣旨の発言で、謝罪したりしている。それくらい自己の発言に責任を持とうという姿勢が貫かれており、その誠実さは、村上春樹読者なら旧知の事実だ。だから、過去の刊行物を本人の意向で出版差し止めにするなど、あり得ない話なのだ。村上龍の「コインロッカーベイビーズ」を読んで、村上春樹は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を書いたことは有名だが、その後一切の交流を避けている。村上春樹は借金を申し込まれた時にどうするかのエピソード(借金を申し込まれたら、その金額を渡すけど、貸すのではなくあげて絶縁する)などで、時に人をバッサリ切り捨てる姿勢を垣間見るが、村上龍はどうも村上春樹の何かの琴線に触れたらしく、話題にも出してもらえなくなっている。村上龍は本人であるのだから、何が原因でそうなっているのかわかっているはずだし、テレビで軽々しく村上春樹のエピソードを話すのは違和感しかなかった。
それに、番組の最後で、原稿用紙にその日の感想を一言まとめるコーナーがあるのだが、かつての筆跡は微塵も感じず崩れた書体。人間一番最後まで明瞭に書けるはずのサインも崩れているという印象を受けた。
この記事を書くにあたって軽く検索をかけたのだが、同じ事を思っている人は多いみたいで、脳の病気?入れ歯で滑舌が悪くなった?と情報が錯綜しているようだ。
私は村上龍のエンタメ小説(「愛と幻想のファシズム」「コインロッカーベイビーズ」「5分後の世界」「希望の国のエグゾタス」等)は評価をしており、繰り返し読んでいるのだが、雰囲気小説(「海の向こうで戦争がはじまる」「トパーズ」「限りなく透明に近いブルー」等)は読まない。「半年を出よ」が刊行された時、衝撃を受けて、あまりにも現実味があるものだから、これが北朝鮮に知れたら現実になってしまうのではと恐れ、繰り返し読んだ。とても優れたエンターテイメントであった。これが2005年の刊行、村上龍53歳の作である。村上龍は、これ以後まともな作品を刊行していない。正直、村上龍の作については、村上龍が書けなくなっても、ある程度は「チーム村上龍」で書けると思う。それはやはり村上龍の書体もストーリーも、必ずしも村上龍でなくても書けるものであるし、村上龍のエンターテイメントに限って言えば、物語の設定を面白いものでガチガチに固めれば、最後まで走り抜けてしまえるものであると思う。村上龍はブレーンという言い方を作中でもよくするが、徹底的に資料を用意したり、取材対象・内容をまとめたり、物語を構成し内容に沿って情報を集めるのは、到底1人でできるものではなく、これは決して馬鹿にしているのではなく、高く評価しているのだが、「チーム村上龍」の強さがあるからこその超一級のエンターテイメントがあると思う。だから、村上龍の頭がなくなっても、二世議員のように官僚(ブレーン)の力を借り、ある程度走れるのではないかと思う。
一方村上春樹は、村上春樹にしか書くことができない作品群であるといえる。文体を真似する事はできても、あのテキストのリズム感も、物語の構成も、思わず声を出して笑ってしまうユーモアも、全てを真似できる人は居ない、唯一無二の存在である。村上春樹がエンターテイメントでないとは言わない。寧ろ、超一級のエンターテイメントであり、中毒性は他に類を見ない。しかし、それをそこで留まらせることのない突き抜ける文学性が、世界で評価され続ける所以だと思う。
村上春樹は特定の編集者に頼ることなく、自身と奥さんの陽子さんの二人で何校も推敲を重ね、作品を練り上げていることは有名な話だ。推敲の過程では、激しく口論になることもあるという本人の証言もあった。村上春樹と陽子さんは、家庭内に別々の本棚を有しており、そのラインナップは全く違うものであるという事であった。わかりやすく、村上春樹が文学等フィクションが中心であるとすれば、陽子さんの本棚は心理学等のノンフィクションであるようだ。有名な心理学者、河合隼雄と村上春樹はアメリカ滞在中に交流を持ち始め「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」を共著として刊行するほど親しい仲であるが、この出会いのきっかけは陽子さんの強い勧めであったという。何かのエッセイで初対面の時の、魂の底の方を探られるようなどんよりとした河合隼雄の目線と様子と、2回目に会ったときのからりとした快活で冗談をいうキャラクターの変化に驚いたというものを読んだことがある。受動と能動の切り替えといえばいいだろうか。そんな風に妻の陽子さんは、内助の功と言ってしまえばご本人に強く否定されそうだが、要所要所で村上春樹をうまく導き、血となり肉となるものを与えている、強固で親密な関係である。村上春樹作品の完成には、陽子さんの視点が絶対的に必要なものであるだろう。魂の底で(井戸の底に降りるように)繰り広げられる、村上春樹の物語は、非常に集中して慎重に近づかないと、本質を捕まえる事は難しい。それを村上春樹と同じ深さで、同時間に居ながら、内容について本質を掴み応酬できるというのは、とてつもなく稀有で聡明な能力が備わっている(私は馬鹿なので、村上春樹作品を一読しただけで掴むことができず、何年もの時間の経過と読み返すことでやっと追いつけるという感覚がある)。私が陽子さんの立場に居れる世界線があったとしても、とてもじゃないけど陽子さんの担っている役割が果たせるとは思わない。
先日、ねじまき鳥クロニクルの舞台を東京芸術劇場で見たのだが(この観劇記録については噛み砕けた時に記事にしたい)、門脇麦が当たり前のように村上春樹のテーマが暴力である事を語っていたが、本当の意味で村上春樹の描く世界の暴力を理解しているのか疑問に思ってしまった。村上春樹は長く圧倒的な暴力と、それに抗う生身の人間の姿を描いてきているが、それをこう私が端的に語れるのも、たくさんの読者の読書経験と時間と労力等コストの積み重ねによって、明らかになっている訳であり、村上春樹は暴力をテーマに作品を描いているという定説を生み出しているからである。それは文殊の知恵ともいえ、とてもたった1人で作品を一周一読しただけでその本質を捉えることはできないと思う。村上春樹の作品と向き合う為にはそれ相応の力が必要になり、それは個人が深く降りていくことが必要なのは大前提として、降りていった先での体験を共有して得た統一見解が、暴力をテーマにしてるよね、ってことであり1人でそれを見つけ見定めるのは結構難しいことだと思うのである。私は、村上春樹作品を俯瞰して眺めた時に、物語の根底に流れているのは圧倒的な暴力と、どんなに部が悪くても立ち向かう脆い肉体の人間と、脆いからこそ持てる人間っての強さによる抵抗の記録だと思うのだが、大抵の人は暴力という所までの表現しかしない。圧倒的暴力だけなら誰にでも書けると思う。ただその暴力様子や、強さ、理不尽さ、対峙した時の無力さを嘆くだけなら、誰にでも書けると思う。圧倒的な暴力の様子を読みたいのなら、東日本大震災の津波の経験でも、地下鉄サリン事件の経験でも、東京大空襲の経験でも、読んだらいい。それに価値がないとは言って居ないけど、その記録と村上春樹作品の有様は全くちがう。村上春樹作品の見所は、その圧倒的暴力に生身の人間がどう立ち向かうかという所にあると思う。だから、村上春樹作品のテーマは暴力ですよね、とだけ語るのは、その本質を捉えられていないのではないかと感じてしまうのだ。

note書いてると文字数制限がないから、どこまででも脱線してしまい、自分に酔ってしまうきらいがあるのだが、今回も漏れなくそうなってしまった。
なんで村上春樹を語り出したかといえば、フィジカル(体力等現実的な力)の維持が、人間としての尊厳を保つ為にいかに重要かということであり、それを鍛え続けた村上春樹が第一線を走り続けるのに対し、世の贅に溺れ時にその様子を作中にも描いた村上龍の作品世界と現在の姿を比較するに、手法の違いこそあれ、人間の深淵に近づけたのはどちらかという問いには明らかであるといえる。
村上春樹の読者からは、村上龍なんぞと比較してくれるなと槍が飛んできそうだけれど、同時期に生き、同じ作家という職業に就き、交流と断絶を持ちながら、真逆の世間との関わり方をし、奇しくも同じ苗字である2人を比較対象として取り上げるのは、一つの形というか、学術でも商業誌でもなんでもない、素人の目線として、ご容赦いただければと思う。

顰蹙ついでに冒頭の文脈を回収しようと思う。なぜ村上春樹を好きすぎるから、翻訳とエッセイを読まなくなったのかという部分である。この記述を覚えていてくれている人が居るだろうか…。私は村上春樹より、33年若輩である。村上春樹の新刊を待てない未来を生きていくことなんて、私にはできない。何を言わんとするかは、同じことを恐れている同志に伝わればいい。言葉にすることも憚られる。私はフィジカルのトレーニングをしていないので、順番が逆になるかもしれない。それならそれでいい。でも、順当に行けばそういう未来がいつか来てしまうかもしれない。そうなったときに、私を慰めるのはやはり村上春樹以外にないと思う。村上春樹穴を埋めるのは、村上春樹以外にない。未だ触れていないテキストを意図的に用意しておくことで、恐るる未来が到来しても、自分自身がサバイブしていけるように、備えているのだ。村上春樹の新刊の本を開く時、私は必ず祈っている。右手を本の表紙に添え「これが最後になりませんように」と心の中で強く祈る。いつまでもこの村上春樹の新刊を待つ楽しみが続きますように。

同時代に生きているのだから、一度でいいから会ってみたい。同じ空気を吸い、挨拶を交わすだけでいい。村上春樹の持つ生の雰囲気を感じてみたい。私は18から都内に住んでいるのだが、若かりし上京したての頃はいつかどこで会ってもいいように、村上春樹の文庫本を一冊、必ず鞄に入れて持ち歩いていた。そこに直筆のサインを貰える日を夢見ていたのだ。嗚呼、雲隠れしてないで、たまには表に出てきてよ。

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