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「癒える」とは「考えなくなる」ということ

去年のちょうど今頃から、しばらくの間長いうつ状態だった。

うつ状態の時は、死にたいと思うことが常態化していた。でも、死にたいと思うのが当たり前になりすぎて「みんなも落ち込んだらこうなるだろう」と甘く考えていた。

この程度で受診してしまっていいのかと言うためらいを抱えながらメンタルクリニックを受診し、問診票の「希死念慮がある」という項目は「いいえ」を選んだ。今思えばなんでそんなことをしたんだろうと不思議に思う。あんなにも毎日死にたかったのに。

一切死にたいなんてことを考えなくなった今になって、改めて当時の自分の心の状態を振り返ると、相当異常な状態だったと思う。渦中にいるときは気づかなかったけれど、毎日死にたいと思うなんて尋常なことではない。

8月になったら死にたいと思うことに満足したのか、突然死にたさが消え去った。でもそれ以降も、しばらく様子がおかしかったように思う。ハイになっていると言うか、躁状態というか、神羅万象全てが輝いて見えていた。

死にたい気持ちはなくても、「死ねる時がきたら死にたい」という気持ちはあったし、「死にたい日々を乗り越えたのだからここからは余生だ」とも思っていた。辛かった日々と地続きの日常が続いているだけなのに、死にたかった頃の自分を切り離して、辛さから逃げようとしていたのかも知れない。

ほとんど死について考えなくなった今思えば、死について考えている時点でまだ「死にたい」という考えに囚われていたんだとわかる。癒えることは、考えなくなることなんだ。

一見ポジティブな感情に思えても、死について考えている時点で死に囚われている。死にたいと思ったことのない人は、多分日常の中で死について考えることなんてまずないんだろう。


私には今、死にたいほど辛いことはない。でも最近になって、これまで見て見ぬふりをしてきた一生消えない大きな傷の存在に気付いてしまった。

悔しいし、腹が立つし、悲しかった。夜一人で声を上げて泣いた日もある。でも、いっぱい悔しがったら涙は出なくなった。ほんの少しだけ、癒えたのだろう。

そのことについて考えなくなる(=心の傷が癒える)言うところに至るまでには遠いように思うけど、涙が出なくなると言うことは第一段階は突破できたと言うことだ。涙が心の血であるならば、生傷は傷痕になった。


悩んでいる最中は、それがとてもちっぽけなことに感じるし、その時の心の状態の異常性に気づきにくい。それに、悩みから解消されるなんて途方もないことに思うけど、それは突然やってくる。気付いた時には癒えている。

それを信じて、今は飽きるまで苦しもうと思う。苦しむことは悪ではない。本当は苦しいのに、苦しくないフリをする。それが本当の悪だ。

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