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『群集心理(100分de名著)』武田砂鉄

ネットでよく見る炎上や昨今のオリンピックの問題、コロナ禍の自粛警察など、身近なようで遠い出来事。
これは本当に自分の意見なのか、、、
それともみんなの意見に自分を同一化させただけじゃないのか、、、

善良な個人が狂暴化するとき

人びとが無個性化した「群衆」と化す過程を辿り、その特性や功罪を考察した社会心理学の名著。なぜ群衆は合理性のない極論を受け入れるのか? 指導者やメディアはいかに群衆心理を煽動するのか? 気鋭のライターが政治のあり方からネット炎上までを俎上にあげ、現代にはびこる群衆心理の問題をあぶり出す。(amazon書評より)

誰しもが群衆になりえる。

この本を読み進めていて最初に驚いたのはこの事実、ルボンは「群衆は物事を軽々しく信じる性質を持つ」と指摘しているが、同時に「国籍、性別、人種、生活様式、生活、知力に関係なく、誰でも群衆になり替わってしまう危険性がある」と、警告している点である。
例として、中休みに校庭で遊んでいる子供たちがいるとする。彼らは一輪車やかけっこ、隅では読書をする子や昼寝をする子がいたり、思い思いに楽しんでいる。しかし、そこに先生が来てかけっこを行うといった瞬間にそこにいる子供たちはほとんどみなかけっこに夢中になってしまう(=群衆化)のである。

群衆を操る指導者たち

群衆を操るのはたやすい。昨今の政治を見ているとそう感じることが多い。本書で群衆を操る一番単純な方法として紹介されているのが、『反復』である。

ナチ党が目指すプロパガンダというものは可能な限り分かりやすさを追求したものであり,一部の知識人や上流階級のエリート層ではなく,一般の大衆,特に労働者を中心に向けられたものである。大衆の理性にではなく,感情に訴えることが重要な要素であり,同じ内容の話を繰り返し,反復することが重要とされた。(太成学院大学紀要 論文 第19巻(通号36号)pp.31-40)

『嘘も100回言えば本当になる』との言葉があるが、この言葉も上記の話から派生した言葉だと言われている。昨今の政治では「議論は尽くした」との言葉が乱用され、気づけばタイムリミットがやってきて、正確な批判をしていた人がいつの間にか「いつまで批判をしているんだ」という風な形で形成を逆転されるケースを目の当たりにしたこともある。

ここにもいかに群衆が流されやすく脆い存在であるかが伺える。

本当に自分の意見なのか。

「自分もこの中にいる」という問い立ては筆者が群衆から逃れる思考法として紹介しているものである。これは思考の幅を広げるものであり、「自分もこの中にいる」→「自分は違う」→「自分もそうかもしれない」と切り替えていくと問い直すべき課題や深く考えるべき課題が無数に出てくる。そして、それらは問題の持つ複雑さを分かりやすさのふるいにかけないことであり、「分からない」状態を怖がってはならないということ。繰り返し目にする主張は誰かの反復である可能性があるという事を認識しつつ、これは本当に「自分の意見」なのか。と、自問自答し、「分かりやすさ」へ抗うことが群衆心理の暴走を引き留めることにつながる。

この期に及んで卑怯かもしれないがルボンは群衆による徳性も主張している。第1回目の緊急事態宣言時やサッカーの日本代表を応援する群衆の力は偉大であり、物事を良い方向に進める良い力である。
だからこそ、騙されずに愚衆とならず、日々の生活を充実させるためにも個人個人がしっかりと目の前の物事にこだわり、考えて行動することが大事なのである。

感想:考えることで日常を豊かにする(オシム監督と野村監督の教えから)

「群集心理」から学んだことを自分の生活に活かしたい。そう考えたときに二人の監督の名前を思い出した。サッカー日本代表のオシム監督とプロ野球の野村監督だ。この二人に通じるところは含蓄のある言葉を使いぼやくところであり、スポーツの枠を超えた人生哲学を持っているところにあると思う。その人生哲学は「考えながら~、〇〇する」というところにある。

僕らは人生というレールを走り続けなければならない運命にある。自分の意思で止まることは出来ない。日常は勝手に進んでいく。しかし、走りながら考えることで悩み、「立ち止まる」状態と同じことを生み出したり、自分の人生に意味を見出すことができるのではないかと思う。


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