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King Gnuの新曲『カメレオン』の歌詞を考察してみたら、常田さんの懐の深さに頭を抱えた話

『カメレオン』はまるで短編小説

優れた歌詞は短編小説のようだと思う。King Gnuの新曲『カメレオン』を聴いていてそう思った。メロディや演奏、ボーカル井口さんの声の表現力など、曲を構成する要素すべてがその役割を十二分に全うしたことでこれだけ胸に迫る音楽に昇華されているわけだが、ここではその要素のひとつ、歌詞について少し踏み込んで考察していきたい。

早速だが、私が「小説のようだ」と思うきっかけになったAメロ部分から見ていく。(AメロBメロという分け方でいいのかわからない曲の構成だが、便宜上、サビ前の2パートをそれぞれAメロ、Bメロと呼ぶことにする)

急行列車が通り過ぎた
寂れた駅のホームには隙間風が吹き抜けた

季節は晩秋から冬。片田舎の人気のない寂れた駅のホームで、僕は簡素な駅舎に吹き抜ける乾いた風に身を縮める。

君の姿はどこにも見当たらなくて
時を経て、通話画面に映った君はもう僕の知らない君でした

確かに見えたと思った君はすぐに霧消した。それは僕の想いが見せた幻、過去の君だろうか。急行列車が通り過ぎて静まり返ったホームに着信音が鳴り響く。あの頃にはなかったビデオ通話の機能で、唐突に君がそこに現れる。君? それは本当に君なんだろうか。
元気? うん、帰ってきたよ。そっちは? 元気? 何でもない顔をして会話をする僕は、重ねて思う。これは君? そうか。これが君、だとするならば、それは僕の知らない君だ。

幸せそうに笑うからつられて僕も笑ってしまった

僕の見た最後の君はこんな風じゃなかった。違う。こんな顔で、こんな声で、笑ってはいなかった。でも—。瞬間、僕は口元が緩むのを感じた。

どうだろうか。(どうだろうか、じゃない)
いきなり小説を始めてしまったが、歌詞から読み取れる範囲だけでも、かなり違和感なく物語を作り出せることがわかる。
AメロからBメロは具体的な状況を提示することで聴く者に極めて個人的なイメージを想起させ(自身の生まれ育った土地の駅を思い浮かべる人は多いだろう)、続くサビでは反対にかなり抽象的なフレーズを重ねてくる。

何度でも何度でも塗りつぶして
汚れた悲しみの上から白い絵の具で
すべてを台無しにして放り出してしまった夜さえ
キャンバスは色付くから
涙滲んでにわか雨

AメロBメロと違い、ちょっとぼーっとしていると何のことを歌っているのだろうと迷子になってしまいそうだが、ここが絶妙なところで、すでに私たちはAメロからBメロで脳内にこの物語の舞台をしつらえてしまっている。だから「汚れた悲しみ」がなんであるか、「放り出してしまった夜」がなんであるか、それぞれで思い描くことができる。自分自身の体験がリンクしてイメージを補うこともあるだろう。随所で「白い絵の具」「キャンバス」「にわか雨」など具体的な事物を挿入してくるのもポイントだ。

一息にその世界に引き込むフレーズ(設定の提示)、抽象と具体のバランス、スパッと終わるエンディングが残す余韻、いい意味での説明のなさ。『カメレオン』の歌詞(ひいては曲全体)には短編小説を味わった時にもたらされる感覚が揃っていて、だからたった3分ちょっとの曲を聴くだけで、切ない物語をひとつ、読んだ気になってしまうのである。

「塗りつぶして」という表現に見る、「僕」は「今の君」を受け入れているか問題

ここからは、『カメレオン』を聴いて「小説やん…」と感銘を受けた私が、『カメレオン』のことを考え過ぎて、登場人物の主に「僕」の心情の深堀りが止まらなくなったための考察を書いていく。

曲中では、タイトルからも想起されるようにあらゆる「変化」がモチーフになっている。例えば天候。曲に出てくる空の様子として、「夕暮れ」と「にわか雨」がある。前者は「悲しいほどの夕暮れ」、後者は「涙滲んでにわか雨」(いやここだけでもどんだけ詩的なん…常田さんほんとに)。前後の文脈を見ていくと、夕暮れは「心変わり色変わり 軽やかに姿を変えたのは悲しいほどの夕暮れ 僕の知らない君は誰?」である。「悲しいほどの夕暮れ」が何かに姿を変えたのか、それとも「何か」が悲しいほどの夕暮れに姿を変えたのか。主語がどちらなのかここの文脈だけではわからない。が、このあとに「にわか雨」が来ることを考えると(しかも「変わってしまった君」を経由しての「涙滲んでにわか雨」だとすると余計に)、あの頃(二人が一緒にいた頃だろうか)の「悲しいほどの夕暮れ」が→今「涙の滲んだにわか雨」に変わった、という変化であると私は解釈した。
少し脱線するが、これがただの雨ではなく「にわか雨」であることも重要だ。にわか雨とは、突然降り出した一過性の雨のこと。久しぶりに画面越しに現れた君の幸せそうな姿はにわか雨のように突然で、防ぎようがない、滲む涙を止められない、という、「にわか雨」=「僕の心象風景」と考えることができる。(なんて繊細な仕掛けなの…常田さんあなたという人は)

変化の話に戻る。次に場所。かつて君がいた場所として考えられる「寂れた駅のホーム」(僕の知っている君。それは今は見当たらない)→そして「通話画面」(もう僕の知らない君)。「記憶のなかの君」→「今の君」「鮮やかに色めく君」(僕の知らない色)。あの頃となりに僕が居た?→今はもうとなりに僕はいない。挙げればいくつも出てくるが、こういった「変化」が散りばめられたなかに入ってくるのがサビの「何度でも何度でも塗りつぶして」である。

何度でも何度でも塗りつぶして
汚れた悲しみの上から白い絵の具で

何度でも何度でも塗りつぶして
今の君にお似合いの何色でも構わないの

これをどう捉えるかは意見が分かれるところだろう。「汚れた悲しみ」の上から真っ新な白を塗り、新たな気持ちで悲しくないものを描いていけばいい。何度でもやり直せる。それが何色だって、どんな君だって構わない。字面通り受け取れば、なんと器の大きい、優しさに溢れた男だろうか。でも私は、どうしても違和感が拭えなかった。「塗りつぶして」だ。「塗りつぶして」が引っ掛かっている。もし「僕」が「どんな君でも受け入れるよ」と言うこんなポジティブな奴であれば、「塗りつぶして」が出てくるだろうか。否。「塗りつぶして」である意味。必要性。
ただ「塗る」でも「塗り重ねる」でも「塗り替える」でもない。「塗りつぶす」。(メロディにハマるからとか語感がいいからとかそのへんの話は今は聞かない(知らん顔))。そこにはどこか、やけっぱちな、投げやりなニュアンスが感じ取れないだろうか。塗りつぶす前と後、過去と今、その間にある変化に対するやりきれなさ。過去の「汚れた悲しみ」を塗りつぶして、今の君は「鮮やかに色めく君」になった。僕は? 僕はどうだ? そこに過去を塗りつぶした君に対するほんの少しの非難が、置いて行かれたような寂しさが、感じ取れないだろうか。だからそんな僕が「今の君にお似合いの何色でも構わないの」と言うのは、「口にすれば単純な強がり」なんである。今の君、となりに僕がいない君、それでも構わない、というのは女々しい男の強がりだ。だって本当はそう思えていないから。何色にも変化していく君を受け入れる土壌になんてない。
いや、僕には、今の君も、どんな君でも受け入れたいという気持ち自体は本当にあるのかもしれない。きっとそうだと思う。ただ気になるのは、ここに僕の過去と今は描かれていても、その間の変化、この先の未来が一切描かれていないことだ。僕は今で止まってしまっている。もっと言えば過去で止まってしまっている。今の君はどんなでもいい、と言いながら、そんな今の君、君はいったい誰? と繰り返すこの矛盾。「君は誰?」というシンプルな疑問で歌はふっと終わる。先はないのだ。今の君を受け入れているとは言い難いではないか。今と未来を生きる君に対し、僕は過去にとらわれたまま。『カメレオン』が歌っているのは、ただそこにある「過去への未練」なのである。

中原中也の詩との相似性

ここで、飛躍が過ぎる考察をひとつ。中原中也の『汚れつちまつた悲しみに』という詩をご存知だろうか。『カメレオン』の歌詞を読み解いているうちに、私は語り継がれるこの名作との相似性を無視できなくなってしまった。
『カメレオン』に「汚れた悲しみ」が出てきたとき、「あれ?」とは思った。でも、汚れた悲しみ、という言い回しがどの程度普遍性のあるものなのか、これだけでは常田さんが中也の詩をオマージュした、とまでは必ずしも言えないんじゃないか、と疑いの目を持ちながら改めて詩を読んでみた。少し長いけれど全文引用する。

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

例えば『カメレオン』での「汚れた悲しみ」は、上から白い絵の具で塗りつぶされていく。中也の「汚れつちまつた悲しみ」には、白い小雪が降りかかる。『汚れつちまつた悲しみに』では登場人物は悲しみのなかで「なすところもなく日は暮れ」、『カメレオン』では「僕」が「悲しいほどの夕暮れ」を目にして「僕の知らない君は誰?」と途方に暮れる。どちらも現状の悲しみに対してなすすべなく、それは「ただそこに在るもの」として描かれている。やはり両者はいくつかの点で、どことなくリンクしているように感じられる。(どうなんですか常田さん)

そもそもなぜ「悲しみ」が「汚れている」のか。人は悲しみという感情を、必ずと言っていいほど生きているどこかで感じるものだと思うが、ただそれが、単純な、単色の「悲しみ」であることは多くないかもしれない。やりきれなさ、ままならなさ、怒りや苦しみ、自己嫌悪や諦念、恨みつらみ…。悲しみは時を重ねるごとに絡み合った複雑な感情を内包し、純なる悲しみのままではなくなっていく。「汚れつちまつ」ていくのではないか。

『カメレオン』で歌われている「変化」の本質とは

何度も白く塗りつぶされながら過去の悲しみを上書きしていくキャンバスは、再び白くなったらからといってそれはもう以前と同じ「白」ではなくなっている。奇しくも常田さんは『白日』で「真っ新に生まれ変わって人生いちから始めようが へばりついて離れない地続きの今を歩いているんだ」と歌った。「今日だけはすべてを隠してくれ」「今だけはこの心を凍らせてくれよ」と。何度塗りつぶしたとて、本当の意味で真っ新になんかなれない。今だけは目の前に「白」が現れたとて、それはもはや最初の純なる「白」ではないのだ。

ここに救いはないのだろうか。解釈次第である。言葉通り受け取れば、「汚れた悲しみ」の上から白い絵の具で塗りつぶして先に進もう、新しく生まれ変わって何度だってやり直していける、そう勇気づけているという意味にも取れる。「すべてを台無しにして放り出してしまった夜」でさえも、キャンバスは再び色付いたのである。きっと今の色も変えていける。「塗りつぶして」の部分を、過去の君に対してだけではなく、今の自分に向けることもできるのだ。そこだけは彼の未来について描かれている、そこに救いを見出す。そういう解釈もできる。

ただ私は個人的には、その説を選択しない。それはやはり、繰り返されるサビの部分が鍵になるような気がするからだ。「何色でも構わない」と言いながらも、正体を「突き止めたい」、けれどそれは「叶わない」し、同時に「敵わない」のであると冒頭のサビ、それからラストの大サビで歌われる。そして「僕の知らない君は誰?」で曲はふっと消えていく。たとえ口にすれば強がりになってしまうとしても胸の内では本当に思っていたであろう君への肯定的な想い。「となりに僕がいなくても」それでもいい、どんな君でも、と思っていたはずだが、ふと我に返るような「君は誰?」にすべてを相殺されてしまうような気がするのだ。

『カメレオン』というタイトルが示すように、解釈も多面的である。受け取る人によっていくらでも色を変える。人も状況によって色が変わる。私たちは常に変化していく。曲中で「僕」は何もできない、なすすべなくそこにある悲しみ、未練を歌っているだけだとここまで書いてきたが、彼が変わらないこともこれから変わっていくかもしれないことも、悲しみにもなれば光にもなる。人はそのときどきによってさまざまに色を変えながら生きていくのだし、それを目にする他者はそのすべての面を知り得はしないのだ。人はそういうものなのだとこの曲は教えてくれているような気がする。(おお、うまく『ミステリという勿れ』の本質にもリンクした)

『カメレオン』はひとつの終わってしまった恋愛を歌い上げるような顔をしながら、同時に根本的に人の持つ感情の危うさや揺らぎを歌っているのである。人間なんてそんなものだし、それは嘆くようなことでもない、と。常田さん、本当に、あなたという人は人生何回目なのですか。(大好きです)

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子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!