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【ミステリ小説】樹下美人の涙(後編)

(前編のあらすじ)古墳の発掘調査チームに属する柿本耕作は、石槨(せっかく)内部を特殊カメラで動画撮影中に、壁画に描かれた女官が涙を流すような映像を見た。
 その夜、古墳の脇に建てられた作業小屋で宿直していた耕作のもとへ、友だちの額田千紗がやってくる。
 翌日、調査チームの高市主任が収蔵室で倒れているのが発見され、その側で壊された副葬品が見つかる。それは赤外線アラームに監視され、持ち出しできないはずの、古墳内部から持ち出されたものだった。

―名探偵、社響(やしろひびき)が、涙する壁画、監視下の密室から持ち出された副葬品の謎に挑み、一点に収束させる解決編。


5

 一週間が過ぎても高市主任の容態は回復せず、病状は一進一退を繰り返しているとのことだった。

 事件の余波で発掘作業も中断しており、時間の空いた耕作は大学病院に主任を見舞うことにした。受付で病室を尋ねると、すでに集中治療室を出て一般病棟に移っているが、面会は無理とのことである。
 それでもせっかくなので、迷路のように入り組んだ廊下を、表示を頼りに病室に向かう。

 教えられた病室のドアには、あたりまえだが「面会謝絶」の札が掛かっていた。
 ドアの前でどうしようかとしばらく迷っているうち、主任と似た面差しの老齢の婦人が、水差しをもって廊下を歩いてきたので、尋ねてみるとやはり母堂だった。

 老婦人は、外見は高市氏に似ていたが彼の持つ狷介な雰囲気がなく、恐縮した体で耕作が差し出す見舞いを受け取った。

―高市さんて、正直人望があるタイプとちゃうよね。

 千紗の言葉が頭によみがえる。
 切れ者だが、人を寄せ付けない一匹狼型の性格が、見舞い客の数に表れているようだ。自分が入院したら、一体どれだけの人が心配してくれるのだろう、とふと思う。

 ホールに戻ると、見覚えのある顔にぶつかった。郷土史資料館の藤原館長である。
 館長とは名誉職というべきで、耕作も何度か資料館に足を運んだ事があるが、館長室で見かけたことはあまりない。
 これまで短い会話をしたことがあるだけの相手だったので、挨拶すべきか迷っているうちに、相手のほうが目ざとくこちらを見つけて声を掛けてきた。

「君は確か、大友君のところの卒業生だね。今日は高市君の見舞いかな? ご苦労様だね」
 藤原は齢八十をゆうに過ぎているだろうが、かくしゃくとした様子で、普段は病院に縁がなさそうに見える。
 その風貌は杖を片手にした好々爺然としているが、地元の遺跡保存会に顔が利き、大友教授も頭が上がらない在野の実力者とのことだ。今回の槙嶋古墳の発掘が実現したのは、この老人の寄与によるところが大きいとも聞いていた。

 耕作は藤原館長に喫茶コーナーへ誘われ、コーヒーをすすりながらひとしきり昔話を聞かされるはめになった。
 大友教授の師匠筋に当たる現在の中野名誉教授と、戦前はめずらしかった蹴球部で出会って意気投合したエピソードや、論争で対立していた旧帝大の蘇我講師を、中野教授とともに闇討ち(!)でボコボコにして、当時の学会に革命を起こした話など、うわさには聞いたことのある武勇伝である。

「高市さんの具合はどうなのでしょう?」耕作は話の流れを変えるために、尋ねてみた。
「詳しい容態はわしも知らんが、早期の回復は難しそうだね」
「埋蔵遺跡調査センターのほうは、大丈夫なのですか」
「心配いらんよ。彼は学究肌だったから、センターの業務には向いてなくて、いなくては困ると言う人材でもないんだ。
 大学に戻って研究を再開したいと望んでいるらしいが、大友君にその気はないようだね」

 高市主任が聞いたら、更に容態が悪化しそうなことを口にする。   「ところで……」老人の眼光がやや鋭くなった。
「石槨の壁に描かれた女性像が涙を流したという噂を聞いたが、本当かね?」
 内視調査の件だな、と思ってうなずく。
「・・・なにかの見間違いではないのかね」
「かなり鮮明な映像が残っているので、それらしい現象が起こったのは確かなようです」

 老人はうつむいて、考え込む様子を見せた。
 耕作は、資料館に呼び出された日に廊下で立ち聞きして以来、気になっていたことを思い切ってぶつけてみた。

「“ふるみやのごけ”とは何ですか?」
「ああ、草壁君との話を聞いたのだね」
 藤原老は立ち聞きを咎めるでもなく、複雑な表情を浮かべながら話し始めた。

 ふるみやとは、「旧宮」、もしくは「古宮」、すなわち天子のお墓を指す。
 江戸期この古墳が、皇統の陵墓だと言う話が伝えられていたことは知っているだろう? 古墳に埋葬されているのは、さる天皇の御子とされている。

 藤原は、耕作もその名を知っている歴史上著名な皇子の名を出した。
「えっ、被葬者がわかっているのですか?」驚く耕作に向かい、
「根拠のない言い伝えだがね」苦笑して見せた。

 高松塚古墳やキトラ古墳の石槨には、被葬者を守護する四神図が描かれていた。
 四神思想は「礼記」に「行けば朱鳥を前にして、玄武を後ろにし、青竜を左にして、白虎を右にす」と記されているように、天子の軍礼と深く結びついている。そしてこの軍礼は死後も続くと考えられていた。

 この四神になぞらえ、槙嶋古墳を守るように四方に配置されて、祭祀を執り行ってきた古来の家系がある。
 北には「玄武」にあたる黒岩家。東に「青竜」の青沼家。
 南に「朱雀」の赤井家。西に「白虎」にあたる白金家という具合だ。
 この四家が“旧宮の護家(ふるみやのごけ)”と呼ばれていて講を営み、戦前まで年替わりで祭礼を執り行っていたらしい。
 四つの護家のうち、二家は現在も存続している。

「今回発掘を始めるにあたって、慰霊祭を地元のお寺に頼んだのだが、それが彼らの意に沿わなかった。天子の陵墓を鎮める役目を仏式で行うとはなにごとだ、というわけだ」

 仏式だ、神式だと言われても、耕作にはピンと来ない。神々の世界に国境がないなら、キリスト教式でもいいような気さえする。
 関係者が聞いたら、不謹慎きわまりないとののしられそうだ。

「中でも執拗に抗議してきたのが、黒岩の当主だった。
 もっとも現在のは分家筋にあたるようだが、今でも古来の教えを守って生きている。それが“陵墓を冒涜する発掘を中止せよ”としきりに訴えているのさ」

 藤原館長は苦い顔で続ける。
「もし彼らが、壁画の人物像が涙を流したと知ったら、“古墳の祟り”だとますます言い募るだろう」
 なるほど、そこへつながるわけか。耕作は納得した。

「らちもない噂話と言ってしまえばそれまでだが、こういった話はマスコミ受けしやすい。
 今回見つかった壁画は、ゆくゆくは国の重要文化財にも指定されるだろう貴重な発見だから、くれぐれも慎重に頼むよ」

 在野の実力者らしく、醜聞に敏感なようである。藤原館長は耕作に口止めをすると、ふたり分のコーヒー代を支払って飄々と立ち去った。


「今日はもう少し詳しく、お話を伺おうかと思いまして」
 坂上刑事の言葉に、耕作はずんと来るプレッシャーを感じた。「任意の事情聴取」で呼び出されていたため、病院を出た足で所轄所に立ち寄ったのだ。
 事情聴取を担当したのは、郷土史資料館で会った坂上刑事と、名前を忘れた長身の相方である。

 取調室の簡素な室内には、いっさいの無駄な装飾品がなく、ただ机と椅子があるのみである。耕作は実用一点張りの椅子に座らされ、再度名前、略歴、発掘調査団に加わった経緯などを確認された。

「先日はご協力ありがとうございました」
 坂上は、それでも丁寧な口調で礼を言った。
「残念なことに、その後発掘作業は中断しているようですね」
「例の土器以外に紛失した遺物がないか、照合にかかっていました」

 せっかくの大発見が世に出る瞬間が、このようなことで延期されるのももどかしいが、世間の注目を浴びるということは醜聞も広まりやすいということだ。
 発掘の責任者たちは、慎重にならざるを得ないのだろう。

「被害届けの提出は見送られているようですが、ほかに紛失したものは確認されましたか?」
 耕作は黙って首を横に振る。
「高市主任は、やはりなにかのトラブルに見舞われたのでしょうか?」
「高市氏の昏倒の主因が、労作性狭心症であることに疑いはありません。しかし我々は氏が倒れた当夜、誰かがそばにいた可能性が高いと見ています。 
 その人物は、倒れている高市氏に対する救助義務の放棄による、保護責任者遺棄罪の疑いがあります」

 そう言うと、耕作の反応をさぐるようにじっと目を見つめた。
 そのほか高市主任の額には打撲痕があったが、転倒の際に打ったのか別の原因によるものか特定されていない、とのことである。
「高市氏の当日の行動ですが、十七時三十分ごろ資料館に入館し、閉館を告げる事務員に自分はもう少し仕事をするから、と言って残っていたそうです。
 氏は職員通路の合いカギも所持していたようですね。問題はこの副葬品なのですが……」

 坂上は破損した玄武の写真を示した。
「目撃者の話から、これは高市氏が持ち込んだものではないことが明らかになりました。氏は同日入館した際、手ぶらだったそうです。
 前にも言いましたが、これを一体誰が資料館に運んだのか?」

 社の説はどうなったのだろう。
 そう思った耕作の機先を制するように若い刑事が、
「あの場でも話に出たように、資料館で見つかった土器と古墳内の土器が別物であれば、現象の説明がつきます。

 そこで我々は科捜研に、土器に付着していた土と石槨内部に侵入していた土のサンプル分析を委託しました。
 その結果、土器表面に付着していた土の特徴は内部撹乱土に非常に類似している、とのことです。
 また土器表面には、石槨内に散乱していた漆塗り木棺の細片や、プラントオパール(植物由来非結晶珪酸体)と同じものが付着していました。
 これらのことから、資料館で見つかった土器と古墳内部にあった土器は、同一物と考えていいと思います」

 先輩のでまかせは科学捜査には通じなかったな、と耕作は思った。
「撮影終了後、機材撤収のために玄室内に最後まで残ったのは、カメラ操作を行っていた学生と柿本さん、あなたですね?」
 若手刑事が、手帳を見ながら指摘する。「八代君という学生は、あなたより先に玄室を出たと証言しています」

 耕作はそのことを認めた。
「もちろん、彼はその場で土器を持ち出さなかったし、それ以後の夜間だれも玄室の入り口に近づいたものはいない、とはあなた自身の証言です」
「だとしたら不思議ですなあ」坂上が、芝居がかったしぐさで首をひねった。
「警報機の作動状況から見て、あなたがスイッチを入れる前に問題の土器を持ち出した、と考えるのが唯一可能な説明のようですが」 

 耕作が答えあぐねて沈黙するのに被せるように、若い刑事が言った。
「例えばあなたは、問題の土器を夜のうちにいったん資料館に持ち込もうとする。誰もいないはずと思っていたのに、高市氏と鉢あわせし、問い詰められることになった。そこで争いが……」
 耕作は、あわてて口をはさむ。「なぜぼくがそんなことを?」
「動機の点も興味のあるところです。と言うのは、この土器は金目の物ではないからです。
 これを欲しがるとしたら、マニアか関係者ぐらいのものでしょう」

 耕作は、自身の関与を固く否定した。
 結局事情聴取から開放されたのは夕刻で、それまでに耕作はくたくたになっていた。
 疑いをはらすことはできなかったが、疑いを裏付けることもできなかった格好だった。

 スマホを見ると千紗からラインが入っていた。彼女に電話して、大学近くのファミレスで一緒に夕食を摂ることにする。

 そこは耕作が在学時から学生の溜まり場で、三十ほどもある席がほぼ埋まっていたが、奥の喫煙席のほうから千紗が手を振っているのが見えた。「こっちこっち」
 近くに行くと、彼女が喫煙席にいる理由がわかった。見知った顔が相席している。

「社先輩!」
 相変わらず厚手の黒いジャケットを羽織っていた社響が、千紗の隣に座っていた。
「ここに来れば会えると思っていたけど」
 社は耕作と千紗を等分に眺めながら言った。
 在学年数に比例して顔が広いため、彼女とも顔なじみである。となりの席の女の子たちが、社のほうをちらちらと盗み見ていた。
 長身で端正な顔立ちの社を見た女性の一般的な反応だが、本人はいたって無頓着である。

「ぼくを待っていたのですか?」
「あれからどうなったのか、興味があってね」
 耕作は定番のミートスパを注文すると、口いっぱいほおばりながら事情聴取の過程で知りえたことを説明した。

「半日留め置かれたとは、君よほど心証が悪かったんだねえ」
 社はにこにこと嬉しそうな口調で言うと、タバコに火をつけた。
「先輩の模造品説は一蹴されましたよ」
「精巧な模造品をつくるには、あらかじめ土器の形状やサイズを知っておく必要がある。無理があるとは思っていたよ」
 負け惜しみを口にした。 

「でも君たちは、問題となる時間ずっと一緒にいたわけだね」耕作の目をじっと見つめると、「ちゃんと避妊したろうね?」
「あ、それなら大丈夫です。安全日でしたから」千紗があけすけな口調で言い、耕作は赤くなった。
「ならいいけど。負担を強いられるのはいつも、女性のほうなんだから注意しないとね」評論家のような口調で言った。
「なんだ。じゃあ立派にアリバイがあるじゃないか」ふーっ、と煙を吐き出す。「つまらんなあ」

「ぼくを信じてくれるのですか?」
「しかし今さらこのことを持ち出したところで、信用されないだろうなぁ」 
 意地悪く付け足す。
「ぼく自身不思議でたまらないんですよ。どうやって目の前からあの土器を盗み出したのか」
「君の目の前で何かを盗み出すなんて、簡単だよ」そう言うと、ポケットから何やら取り出して見せた。「ほら!」

「あっ、ぼくのスマホ。いつの間に?」
なんなら君の目の前で、彼女のハートを盗んでみせようか?
 千紗をじっと見つめる。その冗談に千紗が嫌がるでもなく、ケラケラ笑っていることに少しへこむ耕作である。

「で、宿直の夜誰も古墳に近づかなかったことに間違いないのだね?」
 社の問いに、耕作はうなずいた。
「君らは乳繰り合っていたんだろう。気づかなかっただけじゃないか?」「チチクリアウって、どういう意味?」千紗の質問を無視して、
「アラームが鳴れば嫌でも気づきますよ。それにいちど警報が出れば管理システムに履歴が残りますけど、それもなかったし」

「センサーをかいくぐって、いかに土器を持ち出したか? センサーは確か赤外線感知式だったね」
 耕作がうなずく。
「死角はないのかな」
「たぶん全方位型です」
「宇宙服で赤外線を遮断して、赤外線感知器をすり抜ける冒険小説があったように思うが」
「宇宙服を着てこのあたりを歩くと、たとえ夜でもすごく目立つと思います」

「玄室の石組みは、古墳の頂上で露出していてかなり大きなすき間があったけど、昼間のうちに土器に細いテグスをまきつけておいて、天井石の隙間を通して夜のうちに回収することはできないかな」
「テグスが巻きついていれば、いくらなんでも気が付くでしょう。それにあの土器が通るほどのすき間が、ありましたかねえ」
「玄室内部は暗いから、細いテグスは見えにくかったはずだ。
 そうだ、夜回収するときに石組みの間を無理に通そうとして、破損したのかもしれない」

 自信ありげな社に対し、耕作は半信半疑である。
「持ち出したのは、誰なんでしょうか?」
「ぼくが思うに」もったいぶった口調で社が断定する。「誰が、という謎を解明する糸口は、『なぜ』資料館に運んだのか、にあると思う。自宅に持って帰れない理由が何かあったのか?」

 社はどこから調達したのか郷土史資料館の平面図を広げて、説明を始めた。
「もうひとつの現場である、郷土史資料館だ。
 正面入り口に据えられた監視カメラには、不審な人物の出入りは記録されていなかったそうだ。高市主任が倒れていた収蔵室内に争った形跡はない。
 すべての窓は施錠されており、侵入者の痕跡もなかったらしい。
 裏手の職員通路のカギは、定時以降も開いていることが多い。事件の日も開いていたそうだ。セキュリティに問題ありだな。
 鑑識が残留指紋や遺留品の調査をしたが、当初高市氏の病院への搬送を優先したため、現場保存が不十分で注目すべき証跡は見つかっていない」

「警察はなんでちゃんと調べへんかったんや」千紗が非難する。
「あながち初動捜査のミスとも言い切れないね。当初は事件性を疑わせる要素がなかったからね。
 高市氏は持病である狭心症の発作を起こした、と考えられたため警察を呼ぶ理由もなかった。
 あの土器がなければ、今でも単なる持病の発症と判断されただろう。警察では目撃者も探しているけど、知ってのとおり人通りの少ないところだから見込み薄だね。
 高市さんもいっそ亡くなれば、検死によって様々な情報が得られるはずだけど、中途半端に生きているのが難点だね

 さわやかな笑顔で、不謹慎なことを口走る。
「どうして、こんな詳しい情報まで知っているのですか?」
「県警の記者クラブに友人がいるんだ」
 耕作はなかばあきれて、社を見つめた。
「犯行の機会と言う点で怪しいのは、君と一緒に最後まで残っていた学生だ。ぼくと間違われた八代君」

 主語がちがう! あなたが間違われたのですよ、とのツッコミを耕作は飲み込んだ。
「彼は阪西大の院生で、発掘スタッフの一員です」
「機材の片付けの時に、不自然に石槨に近づいたりしなかった?」
「八代君とは一緒に、最後まで機材の片付けをしましたが・・・」耕作は記憶の糸をたぐり、その日の行動を振り返る。「彼が先にカメラのついたアームを持って出ました。その後ミーティングがあり、全員が参加しました。そこで宿直の班編成を決めたのです」

 やはり耕作が知る限り、誰も古墳には近づかなかった。
「やっぱ、祟りちゃう?」千紗がジンジャーエールに突っ込んだストローを、もてあそびながら言った。「雨で調査が延期になったのは、警告やったんよ」

「面白いね」案に相違して、社はこの話題に乗ってきた。「涙を流す壁画か。次は髪の毛が伸びたりしてね。
 実はまだ問題のシーンを見ていないのだけど、ぜひ見たいものだな」

 そう言えば、先日“飛鳥の宮”では土器のシーンで再生を止めて、その先を見せなかったな、と耕作は思い出した。
「なんで泣いたんかな? やっぱり化粧が落ちて醜くなった顔を見られたくなかったのかも」
「千紗ちゃんなら、すっぴんでも大丈夫だけどね」あら~先輩たらお上手、などと言うやりとりを無視して、耕作は言った。
「映像はかなり鮮明だし、錯覚ではないと思いますが」
「壁画には、四神像が描かれてなかったらしいね」
「天井に星宿図はありましたが、四神図はなかったですね」

 耕作は、草壁の説を披露した。
「すると、あの土器は貴重な発見だったわけだ。大友先生と草壁さんは金鉱を掘り当てたね。今回も高市さんは貧乏くじかな」
「高市主任は、大友門下だったと聞きましたが」
「そうだよ。本人は大学で研究を続けたかったらしいけど、官に人脈を作りたかった大友教授の意向で、泣く泣く埋蔵遺跡調査センターに入ったとの噂だ。
 大友天皇としては、将来的に自分をおびやかす存在となる可能性の少ない草壁さんのほうを後継指名した、という説もある」

「そんな……」千紗がつぶやいた。
 確かに高市と比べれば草壁のほうが温厚で、教授からすれば御しやすいに違いないと耕作は思う。
「煮詰まっちゃったねえ」社はふーっ、と天上に向けて煙を吐き出した。

「ウチやっぱり、警察に行く。あの夜、耕作といっしょにいたことを証言すれば、疑いは晴れると思うし」千紗が、思いつめたように言葉を吐き出した。「このままじゃ、耕作犯人にされるかも」
 感情が高ぶったのか、彼女の瞳には見る見る大粒の涙がたまっていく。
 社は目を細めて、「愛だねえ。樹下美人の涙より、千紗ちゃんの涙のほうがずっと価値があるな」
 そう言ったあと、何かに思い当たったようにしばらく口をつぐんでいたが、「そうか。樹下美人はなぜ泣いたか……? やっぱりそこがポイントだったんだ」

「内視調査時の映像のマスター・ファイルは、警察に提出したのだったね。コピーは公表用のほかにあるかな」
「ぼくが“飛鳥の宮”に置いてあるノートパソコンにコピーしたファイルがありますよ。ほら、先輩も最初のほうだけ見たでしょう」   
「確認したいことがあるので、今から行くと宿直者に電話してくれないか。今日の宿直は?」
 耕作は電子手帳を取り出すと、予定表を確認した。「話題の八代君ですね」
「ちょうどいい。これから行って、樹下美人が泣くシーンを見せてもらおう」  

「本当に、こんな夜中に来訪されるとは思いませんでした」
 “飛鳥の宮”に着いた時には、もうすっかり暗くなっていた。
 紺のジャージ姿で出迎えた八代は、千紗の車で到着した三人を一階の食堂に招きいれた。

「たいしたおもてなしも、できませんが」
「悪いね、気を使わせちゃって。八代君は、柿本君とは同学年なの?」社は一向に悪びれた風もなく、出されたお茶を手に取る。
「柿本先輩の二コ下で、額田さんよりは一コ上になります」

 壁際に置かれた小型のテレビから、プロ野球のオープン戦の歓声が聞こえてくる。
 八代は耕作に茶碗を手渡しながら、
「あ、柿本さん。この間の合コンの支払いはまた連絡しますから」
「合コン?」
 その言葉に、千紗が鋭く反応した。

 八代は眼鏡越しに千紗をちらっと見て、まずかったかな、という顔をする。
 そう、まずいんだよ。耕作は学生を睨みつけた。
「なになに、いつの話?」
 千紗が食いついてきたため、話題を強引に変えようと、耕作は藤原から聞いた「発掘中止の抗議」の件を持ち出した。

「旧宮の護家、か」社が嘆息する。
「そんな家系がはるかな古墳の時代から脈々と続いているとは、ちょっと信じられない気がするな」
 槙嶋古墳は江戸時代までその羨門が開口しており、祭祀が執り行われていたことは知られている。

「大学や郷土史資料館のホームページに、発掘中止を求める脅迫的なメッセージが送られてきたそうですが、それもやはり藤原館長が言うように、護家の関係者のしわざなのでしょうか」
「壊された玄武は、高市主任のダイイング・メッセージかもしれないな」
 まだ亡くなっていませんよ。耕作は内心でつっ込む。

「玄武は北の守護神だから、その表すところは黒岩家。高市主任は、自分を傷つけた犯人のことを知らせようとして・・・」
「知らせようとして瀕死の状態から古墳に戻り、土器を持ち出して資料館に帰った。なんて言いませんよね」
 不機嫌な千紗が、八つ当たりするように言った。
「この推理に、多少の難があることは認める」社が答える。

「むしろ、発掘をやめよ、との犯人側からのメッセージと考えたらどうでしょう」
 耕作の意見に、社はうなずいた。
「黒岩家というのは、今もあるのかい?」
「分家が存続している、と聞きましたが」
「その黒岩の当主が、発掘中止を求めるメッセージとして自家を表す玄武の土器を持ち去り、郷土史資料館で高市主任に突きつけた!」
「資料館の監視カメラには不審な人物は写ってない、と言ったじゃないですか」
「実は資料館の職員のなかに、黒岩家の人間がいるのさ。
 石槨内部に例の土器があったことは、関係者でないと知らない情報だ。
 なるほど、だから身近な収蔵室に遺物を隠そうとしたんだな。明日資料館の職員リストを当たってみよう」自説に酔っているようだ。

 普段なら社の突飛な推理を荒唐無稽と思うところだが、“旧宮の護家”が存在することを知った今では、笑い飛ばすこともできない。
 古代から連綿と続く旧家の言い伝えが、今回の事件に関与しているとしたら・・・
 耕作は少し気味が悪くなった。
 もしこのような犯人が涙する壁画のことを知ったら、発掘を拒む超自然的な意思とみなして、その行為をエスカレートさせるかもしれない。

「あっ、ぼくがやりますから。座っていてください」
 皆の茶碗を片付けようとした千紗をさえぎって、八代が茶碗を盆にのせてキッチンに運ぶ。
「彼なかなか腰が軽いじゃないか」と感心したような社。
「合コンの首尾はいかがでした?」
 千紗が耕作に向かって、先の話題を蒸し返した。耕作がもごもごと言い訳を口にしかけたそのとき―

 突然ドン、という鈍い音が二階から響いてきた。
 三人は思わず顔を見合わせる。

「今何か聞こえませんでしたか?」八代がキッチンから顔を出した。
「二階に誰かいるのかい?」
 社が天井を指しながら尋ねる。
「いいえ、誰もいないはずですが」

 キッチンの奥から懐中電灯を持ち出すと、八代は食堂のドアを開けて外に出た。
 二階に上がるには、一度道路側に出てから建物の反対側に回り、外付けの階段を上がらなくてはならない。“飛鳥の宮”はもともと別の工事現場にあったプレハブ小屋を流用しているので、ここの立地条件に合ってなく、使い勝手がやたらと悪かった。

 耕作も腰を浮かせかけた時、突然八代の叫び声が響いた。「誰だ!」
 懐中電灯の光芒が窓外に走るのを見て、耕作は外に踊り出た。
「誰かいたの?」
「わかりません。誰かが二階から走り下りたのが見えました」

 二階への階段を駆け上がり、ドアを開けて電気のスイッチを入れた八代が、息を呑む様子が目に入った。

 耕作たちがあとを追って部屋に入ると、床には一面ファイルやノートが散らばり、書棚が荒らされて貴重な書籍や資料が無秩序に放り出されている。
「いったい、何が起こったんだ?」
 耕作は床からパソコンを拾い上げると、「ぼくのノートパソコン……」情けなさそうな声を上げた。
 開いた液晶に大きな傷が入り、ちょっと見ただだけでも壊れていることがわかる。

「カギは掛けてなかったの?」
「すいません。まさか我々が一階に居る時に、泥棒が入るとは思っていなかったので」申し訳なさそうに八代が言う。
「何か盗られた物は?」
「わかりません」
「ただの泥棒なのかな?」

 耕作が机の横の、リノリウム張りの床を指して言った。
 そこには無残に割れた、小振りな須恵器が転がっている。古墳から出土した副葬品のひとつだ。
「どういう意味?」
「資料館の時と同じように、壊された土器がある。これも発掘を中止せよ、とのメッセージなのかもしれない」

 皆顔を見合わせる。
 その間社はひとことも発せず、室内を見渡していた。それまでの能弁で陽気な雰囲気が影をひそめて、一心不乱に何か考えている。

「さっきの音はどうやら、これが床に落ちて割れた音らしいな。これはどこにあったの?」
 耕作は、須恵器を見ながら八代に聞いた。
「一時保管室ですね」隣の部屋との境にあるドアを指差した。ドアが半開きになっている。

「いったい誰がこんなことを?」
「柿本さんの言うとおりだとしたら、資料館のときと同じ犯人が?」 
「あまり物に触らないで、警察に届けたほうがいいんじゃないかな」
 一方、社はさわぎを無視してひたすら考え込んでいる。その姿はまるで、何かに憑かれたかのようだった。

「先輩! 気になることでもあるのですか?」
 社は耕作の問いに答えず、机のわきに落ちていた宿直者用の携帯電話を拾い上げると、中を調べ始めた。
 なんとこれも、社のと似たようなガラケーである。

 次に視線を机の上に向け、あたりを物色し始める。机の中央寄りにある小型の古語辞典を手にとって見たのち、「実際の仕掛けがこのとおりだったかどうかはわからないけど、似たようなものだろう」

 おもむろにそう言うと、なめらかな机の端に少しはみ出して携帯を置き、中央寄りの辞典と携帯の上に橋を渡すように、その場にあった薄くて硬いフラットファイルを一冊積んだ。

 コンパクトな辞典の厚みが携帯の厚みとほぼ同じだったので、このふたつを橋脚とした低い橋ができている。
 社はさらに資料保管室から、割れていた須恵器とほぼ同じ大きさの円筒形の小型土器を物色してきて、この橋の上にそっと横たえた。
「実際に試してみようか」
 ポケットからスマホを取り出すと、やや慣れない手つきで操作する。
「あっ、ぼくのスマホ。いつの間に」
 社が手にしたスマホを見て、耕作が声を上げた。

 その声に答えるように、土器の乗った橋を支えていた携帯が振動を始めた。
 それは小動物のように小さく震えながら、少しずつファイルの下からずれて机の端に移動して行く。

 皆が声を呑んで見守るうち、バイブレーション・モードに設定された携帯は振動に伴い少しずつ端にずれていき、やがてガタンという音を残して机から落ちた。
 その瞬間、橋脚を失ってバランスを崩したファイルが傾き、その上に乗っていた土器が転がって、机上から落ちそうになった。社はそれを落下直前にキャッチする。

「我々が聞いたのは、こうして須恵器が床に落ちた時の音だ。落ちていた位置もこの机の横だしね。
 宿直者用携帯には、ちょうど我々が二階からの音を聞いた時刻に、非通知の着信履歴があった。ぼくはこの携帯の受信設定をいじっていないけど、バイブレーション・モードだったかどうか、覚えていないか?」

「いえ、元々は普通の音声モードでした。ぼくが宿直した日に、草壁さんからの電話の着信音で起こされたので、よく覚えています」
 耕作が答えた。
「それ以後何者かが設定を変更した。この単純なトリックで、誰か第三者がこの部屋を荒らしたように見せかけるためにね。
 けれど犯人の一番の目的は、これ!」

 耕作のノートパソコンを手に取ると、「この中の映像データを見られないよう封印するのが、一番の目的だったんだ」
 社はゆっくりと学生を振り返る。
「間違っているかな、八代君?」

 問いかけられた八代は、うつむいたまま神経質そうに眼鏡をいじっている。
「あのとき一階にいた中で、こっそりとスマホでコールできたのはキッチンにいた君だけだ。
 君は誰かが階段を走り下りたのを見たそうだが、外付けの階段を駆け下りると、かなりの音が響く。八代君以外にその足音を聞いた者はいるか?」

 その問いに、耕作と千紗は顔を見合わす。
「それに我々が二階に上がったとき、二階のドアは閉まっていた。中を荒らした曲者が急いで逃げ出すときに、行儀よくドアを閉めたりするかな?」
 社は、相手の答えを待たずに話し続ける。
撮影された映像のコピー・ファイルを見られては困るため、宿直の時間を利用してなにか細工するつもりだったのだろうが、ログインするためのパスワードを知らなかった。
 さらに我々が急に来るとの電話を受けて、あせった君はいっそパソコンを壊してしまおうと考えたが、それだけを壊したのでは怪しまれるので、その他多くの破壊の中に混ぜることで真の目的を糊塗しようとしたんだね。
 あらかじめ部屋を荒らしておき、パソコンだけは念入りに壊したうえで先のトリックを使って、何者かが二階で物色する際、須恵器を床に落としたような音を立てた。
 安普請の床は、下によく響くことも知っていただろう。この細工で、同時に自分も一種のアリバイを手にすることができて、一石二鳥になると君は考えた。
 そこになかったはずの須恵器が落ちている不自然さがあったが、柿本君が偶然にも“旧宮の護家”の話を持ち出していたため、犯人のメッセージという解釈が生まれたのも、ラッキーだったね。
 仕掛けはシンプルだけど、我々がここに来るまでに考えたにしては、良くできているよ。当然指紋などにも注意したのだろうね?」

「見られては困る映像とは、石槨内部の壁画ですか?」
「いや映像そのものではなく、ファイル履歴のなかの撮影日時だと思う。ぼくが調べたかったのは、まさにそれだ」
「撮影日時?」
「パソコンはファイル作成日時を表示しない設定になっていたので、柿本君は気づかなかったようだが、プロパティを調べれば撮影日時は簡単にわかってしまう。
 それが君には都合が悪かったのだろう?」

 八代は唇をかみしめて、眼鏡をいじっている。
「撮影日時のどこが、都合が悪いのですか?」
撮影日時が、内視調査日の前日になっていることさ」
 千紗が尋ねた。「調査日の前日?」

「そう!
 簡単に言うとね、内視調査で柿本君や教授たちが見た石槨内の映像はリアルタイムではなかった、ってことさ。あらかじめ前の日に撮影した映像を、ハードディスクから流していたんだ」

「先輩! 悪いけどそれはありえませんよ」耕作が口をはさんだ。「だって彼はあの日、高市主任の指示に従ってカメラワークを行っていたのですから」
「先入観を捨てて、逆に考えるんだ」社が言った。「高市主任が指示を出していたんじゃなくて、あらかじめ写された映像に従って、高市主任自身が指示を出しているように芝居したわけだ

「高市さんが……?」耕作と千紗が絶句した。
「だよね?」確認するように、八代に問い掛ける。「答えたくないようだから想像で言うけど、君たちふたりは他のメンバーに先んじて前日に自分たちだけで石槨内部を調べた。そしてその時に、何かアクシデントが起きたんじゃないかな?」

 社は学生に向かい、説得するように話し掛ける。
「壊れたパソコンからハードディスクを取り出してデータを読み取る事もできるけど、その手間をかけさせるのかい?」
 八代は決心したかのように、重い口を開いた。「ぼくは、内視調査が本来行われる予定だった日、高市さんに電話で呼び出されたんです」

 雨のため調査の延期が決定され、そのことが皆に連絡されたのは前日の十時頃。雨水による漏電が懸念されたためだ。
「高市主任はその日の午後、ひとりで調査しようとしたらしいのですが、機材の扱いがわからないのでぼくを呼んだのです。
 これは内緒だ、と言われました。とにかく一刻も早く石槨内部の様子を知りたいから、ぼくだけでも手伝うようにと」

「君と高市さんは親しかったの?」
「センターへの就職の世話を、お願いしていました」
 八代は観念したように、しゃべり始めた。「高市さんがなぜそこまでして、中を見たかったのかわかりません」

「予習をしておきたかったのじゃないかな。
 大学への復帰に未練のあった高市氏は、自分の能力を売り込みたかったんだよ。大友教授の前で自説を披露して、実際そのとおりの発見があれば、自分のことを印象付けられるからね」

社は尋ねた。「それで、その時何が起きたの?」
「内視カメラを挿入して撮影を始め、壁画があることを確認しました。そこまでは良かったんです。
 ところが操作中にアームの先端が折れて石槨内に落ちてしまったうえ、土器を破損してしまったんです」八代は、いまいましそうに言った。「高市さんはカンカンに怒ってしまって……。 あの土器は事前に写真が撮られていたので、翌日に調査が行われると、我々のフライングがばれてしまう
 そこで道具を使って、注意深く盗掘孔から折れたアームと土器を一緒に取り出し、修復のためその日のうちにこっそりと郷土史資料館の収蔵室へ運び込んだんです」

なぜ資料館で土器が壊されたのか?
 それはそこで壊されたのではなく、修復するためだったんだ
。資料館の収蔵室には、必要な材料があるからね。

 そして土器を修復するまでの時間稼ぎに、本調査の時にはちゃんと土器が写っていた前日の映像に切り替えて、モニターに流したんだ。君がタイミングを計ってスイッチしたんだね」

「二次調査のメンバーは皆ハードに暗いから、切り替えても気づかないだろう、と言われました。でも内心は冷や汗ものでした」
「確かにきわどい操作だったね。だれかが中を直接のぞいていたら、土器がないことに気づかれてアウトだった」
「機器の片付けをしている時に、柿本さんが石槨内をのぞいたりしないよう合コンの話題を振ったりして、注意をそらすようにしました」

 千紗がびくっと反応し、耕作は首をすくめた。
「その晩、ぼくは気になって資料館に行ってみました。収蔵室に入ると、高市主任は土器を前に難しい顔つきで、腕組みしていました。
 前日には修復に自信ありげでしたが、思いがけずこの土器が注目されることになったので、修復痕がばれるのでは、と気にし始めていたようで突然ぼくに対して怒り出したんです」

八代はその場面を思い出したのか、苦々しげに言った。「ぼくは先生に命じられたとおりやっただけなのに・・・」
 社は、やや同情するように言った。
「高市さんも功をあせって内視調査のフライングを目論んだけれど、トラブルは起こるわ、玄武に関する見解でライバルの草壁准教授に点数を稼がれるわで、ふんだりけったりの心境だったんだ。
 まあ、君の気持ちもわかるが、暴力はいけないな」

「違います」八代は慌てて首を振った。「ぼくは何もしていません。興奮した高市さんは、急に胸を抑えてその場に倒れたんです」
「そのあとはどうしたの?」
「覚えていません。誰か来るのでは、と思って逃げてしまったので」
「状況が君の言うとおりだったとしても、倒れた主任をそのままにして逃げたのはいただけないな。すぐに救急車を呼べば、ここまで悪化することはなかったはずだ。
 それにその後は、意図的に証拠を隠すための偽装に心をくだいている」

 八代は、申し訳なさそうにした。
「とにかくその時は、高市さんが死んでもかまわない、むしろ死んでしまえ、というような気持ちだったんです」
警察に提出したマスター・ファイルと派生コピーは、細工して撮影日時を修正したけど、調査のあとすぐに柿本君がコピーしたファイルにまでは手が回らなかったので、今晩細工しようと考えたわけだね。
 ところがぼくたちが急に押しかけることになったので、計画を変更したんだ。
 警察への出頭を勧めるね。君に殺意はなくとも病人を見捨てて逃げたことは確かなのだし、事情を説明する義務があると思うな」

 八代は神妙な顔つきで、今からすぐにも警察に行くと言った。ここにきて自分から出頭する体裁を取らせたのは、社なりの気遣いだろう。
 三人は、悄然と肩を落として部屋を出る学生を見送った。
「結局、真相はつまらないことだったんですね」
「まあ、こんなものさ」
「資料館職員の中に、黒岩家の縁者がいるというのは?」
「まさか、あんな話を信じたわけじゃないだろうね」

 しゃあしゃあとした顔つきで言う。
「ちょっとショック。まじめな人やと思ってたのに」
 千紗がつぶやき、耕作がとりなすように言った。
「誰でも魔がさすことはあるよ」
「まじめな人やと思ってたのに。ウチに黙って合コンに行くなんて!」恨みがましい目で耕作を見る。

 耕作は軽く咳払いをして、慌てたように付け加えた。
樹下美人の涙も、これで説明ができますね
 本当の撮影日が雨天だった前日ならば、雨水が玄室内部にも降り込んでいたはず。
 石槨は水分を含みやすい凝灰岩でできているし、偶然壁画の目の位置まで微細な亀裂があって、毛細管現象で雨水を運んだ。
 そうか! 先輩はそこから逆算して真相に気づいたのですね」

 社が補足する。
「毛細管で運ばれた水が滴下するには、先端は元の水位よりも低くないといけない。
 前に古墳の中に入ったときに見た記憶から、ちょうど石槨の回りの取り除けられた土の高さが、壁画の目のあたりだろうと当りをつけたんだ。
 そこに水溜りができて、内部に染み出したのだろう、とね」

「たぶん底にも亀裂があるせいで、中に水が溜まらずに済んでいるのですね。
 壁画が今まで持ちこたえてきたのは、石槨の周りが埋まっていたからじゃないかな。それを発掘で取り除けてしまった以上、壁画の保存措置を急がないと」
「そのとおりだね。いやしくも古代史に携わるものならば、遺物の保存を第一に考えるのが当然の反応だと思う。高市さんは気の毒だったが、学者としていちばん大事な姿勢が欠けていたんだ」
「ウチは、樹下美人が泣いたように見えたのは、偶然とちゃうように思えるねんけどな」

「賛成だね」
 社の言葉に、耕作は意外そうな顔をした。
「千年以上の眠りから目覚めたのに、人間のやっていることはあいも変わらず愚かなことばかり」社はそう言うと、苦笑して付け加えた。
「樹下美人だって、泣きたくもなるだろうさ」      (了)

(参考図書)
「古代の飛鳥」網干善教 學生社
「高松塚古墳」森岡秀人・網干善教 読売新聞社 
「斑鳩に眠る二人の貴公子・藤ノ木古墳」前園実知雄 新泉社
《断るまでもないと思いますが、作中の古墳は実在しないし、発掘をとりまく環境も作者の妄想の産物です》

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