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短歌 飛び蹴り

この国はじき戦争をするだろう(ただし私が死んだ後でね)

幸せを定義すること平等な春など来ない三月尽は

当たり前とか常識をノックする腹が立ったら飛び蹴りもする


某所のミニシアターに映画を観に行ったのが先週末。そこに併設されているカフェで偶然手に取ったのが、寮美千子・編「空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集」でした。

更生プログラムの一環として、重罪を犯してしまった少年たちが懸命に綴った詩作品と、そのプログラムで彼らに本気で寄り添い続ける詩人によるコメントが掲載された一冊です。

……。強く惹かれるものがあり、どうにか取り寄せられたので、今週の通勤のお供にしているんですが。

ちょっと、良すぎます。あまりにも純度の高い感情の結晶には、「よく見られたい」とか「こう主張してやろう」とか「こんな技巧を凝らしてやるぜ」みたいな衒いや下心が皆無です。

難しい言葉も捻った表現も、ほぼ存在しません。だからこそ、なのでしょう。どストレートに、読む人の心を打ち鳴らします。

無色透明な叫びは、強烈な輝きを伴って、それを感受する者の精神の核心に肉薄します。少なくとも私は、あまりの衝撃に、通勤電車の中で滂沱しました。マスクしててよかったです。

確かに、彼らのしたことは犯罪で、しっかり償うべきだし、被害者やその大切な人たちのことに想いを馳せれば、受刑者たちの詩について手放しで礼賛するのはどうなの、という意見もあろうかと思います。

それでも、詩作を通じて自分自身と必死に向き合い、社会のあらゆる歪みによって奪われ潰されてきた自尊心が、彼らの心の内で再びゆっくり萌芽していくのを、どうか応援できる世の中であってほしいなぁ、と願わずにはいられません。

このごろよく、「置かれた場所で咲きなさい」というフレーズを目にするのですが、私はそれに首を傾げたくなるんです。おそらくは、今あるものに充足し感謝しあまり欲張るな、、といった意味あいなのかな(違ってたらごめん)。

でも、それって「置かれた場所ガチャ」じゃん……。置かれた場所に感謝してのびのび生きられる人たちは、たまたま(あるいは社会構造的に、ほぼ自動で優位な環境を享受できる)そういう有利な場所に置かれたというだけで。

だから、一歩でも間違えると「置かれた場所で咲きなさい」は、強者が弱者に押し付ける自己責任論を正当化する方便になっちゃう。。気をつけなきゃなー。

猜疑心、と書くとネガティブな印象だけど、物事に常にクリティカルな視線を向け続けることは、実はものすごーく大事なことだと思うんですよねー。

ほら、猫って本質的には決して人間を信じないでしょう。あれみたいなもんですฅ(*ΦωΦ*)ฅ

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