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ドストエフスキー『罪と罰』⑫

これまでの↓


 ラスコーリニコフは老婆を殺害して部屋に戻ってきます。そして死んだように何時間も眠った後、盗んだ物を隠さなければいけないことに気づきました。それで、ひとまず部屋の隅の壁紙が剥がれたところに入れようとします。

彼はすぐさま、壁紙のかげの穴のなかに、片っ端から品物を押し込みはじめた。
「うまくはいった! これで何もかももう人目にはつかない、財布もだ!」
彼はうれしくなってこう考えると、立ち上がり、品物がはいってだいぶふくらんだ感じの隅の穴のあたりを、ぼんやりと見やった。しかし、突然、彼は恐怖に身をふるわせた。
「ああ!」彼は絶望にかられてつぶやいた。
「おれはどうしたんだ? これで隠したつもりか? こんな隠し方があるものか?」

『罪と罰』岩波文庫 

 「品物をうまく隠せた!」とはしゃいだその一行後で、絶望するというこのスピード感。このハチャメチャな感じがとても面白いです。彼はこんな隠し方で「うまくいった!」と思ったことに衝撃を覚え、自分が理性に見放されていると感じ、絶望します。

記憶力も、ほんの単純な思考力も、何もかも自分を見捨てたらしいという確信が、耐えがたいまで彼を苦しめはじめた。
「どうなんだ、もう始まったのか、もう罰がやってきたのか? そら見ろ、やっぱりそうだ!」

 この「罰がやってきた」とはどういうことでしょうか。一説によると、聖書に(もしかしたら聖書じゃなくてロシアの伝承だったかもしれません)「神は罰を与えるときに人間の理性を奪う」という主旨の文章があるようで、それを念頭に置きつつラスコーリニコフは思考能力の欠如を嘆いているようです。

 この後も、「いや、まだ完全には見放されていない!」とか思考はあっちこっち飛び回ります。だいたいお前は無神論者じゃないのかよとも思いますが、多分これは微妙なところで、ラスコーリニコフ自身(そしておそらくはドストエフスキーも)揺れていたのではないでしょうか。


 ラスコーリニコフは警察から呼ばれて、近くの署に行きます。まさかバレたのか?とかいろいろ考えて疑心暗鬼です。それで、受付的な存在である筆写係とちょっとだけ話します。

筆写係は彼の様子を見やったが、好奇心ひとつ面には見えなかった。何か一つのことだけを思いつめたような目つきの、奇妙に髪をぼさぼさにした男だった。
『こんなやつからは何もつかめまい。何がどうなろうと知ったこっちゃないって顔だ』とラスコーリニコフは思った。

 この描写だけで、この筆写係が、仕事や昇進にはあまり興味がなく、自分の世界をもっている少し変わり者であるという印象を(ぼくは)受けます。こういうほんのちょっとの描写で人物を想像させるのが上手いなぁと思うのですが、これは褒めすぎでしょうか?(笑) ドストエフスキーだからというバイアスがかかっているんですかね。


 結局、彼が警察署に呼ばれたのは殺人の嫌疑ではなく、住んでいるアパートの家賃の支払いの件についてであることが分かります。それを知ったラスコーリニコフは、うれしくなって、ついべらべらと自身の身の上なんかを語ります。しかしふと、ある恐ろしい感覚に襲われます。

ほかでもない、彼はもう二度と、さっきのような感傷的な打ち明け話はもちろんのこと、たとえどんな種類の話であっても、警察署のこういう人間どもを相手に話しかけることはできない、いや、たとえ相手が警察署の警部ふぜいではなく、彼と血を分け合った兄弟姉妹であっても、今後、生涯のいかなるときにも、彼らに話しかける理由はまったく失われてしまった、ということをである。

 軽いおしゃべりを調子よくしている最中に、ふとこのことがはっきりと感じられてしまったのです。ここに書かれていることは、この後にも何回も出てくる、小説全体のテーマ的な話ですね。

 ふと思ったのですが、たとえば最近死亡した桐島聡とかは何を考えて生活していたのでしょうか。彼がどのくらいの人殺しに関わったのかはよく知らないのですが、おそらくいくつかの人死にには関係しているでしょう。実行するときにはその覚悟もあったはずです。でも実際人殺しに関わったあと、普通に生きていけるものなのでしょうか。いや、実際生きていたわけですが、それまでと同じように人と関わったりできていたのでしょうか。もちろん、本心は誰にもわかりませんが……。


 警察署をあとにしたラスコーリニコフは、盗んだ金品を家から離れた場所に隠し、その流れでラズミーヒンの家によります。ラズミーヒンは約4か月ぶりの友達の訪問を歓迎し、アルバイトの口も紹介してくれます。

それから、これはぼくが恩に着せているなんて思わないでくれよ。それどころか、きみがはいってきたとたん、こいつは助かったと思ったくらいなんだから。

 ラズミーヒン、ガチでいい奴。ラスコーリニコフにはもったいないくらいいい奴です。前も言った気がしますが、この友情が個人的にはアツいんですよね。ラズミーヒンの快活でお調子者なしゃべり方はかなり好きです。


 ふらふらと自分の部屋に帰ってきたラスコーリニコフは、騒がしい物音を耳にします。警察署の副所長のイリヤ・ペトロ―ヴィチが、アパートの大家のおかみさんをぶってるような音を聞くのですが、実はこれは彼の幻聴なのです。部屋にきたナスターシヤにそんなことはなかったと言われます。ナスターシヤは、(こいつ、マジでやばいかもな……)みたいな感じでこう言います。

「だれも来やしないよ……そりゃ、あんたのがさわいでいるのさ。血の行き所がなくなって、古い血がこちこちに固まりはじめると、いろんな幻覚が見えてくるんだよ……食事はするかい、ええ?」

 いきなり「血」ってなんの話だよという感じですが、すぐあとにラスコーリニコフがこう言います。

をくれないか……ナスタ―シュシカ」
彼女は階下に降り、二分ほどで、陶製の白いコップに水を入れて戻ってきた。だが、それからどうなったのか、彼にはまるで記憶がなかった。おぼえているのは、冷たい水を一口飲むなり、あとの水をコップから胸にこぼしてしまったことだけである。やがて意識が遠のいていった。

 はい。血と水ときたらイエスの処刑の時に流れるものです。

しかし兵士の一人が彼の脇を槍で刺した。そして、血と水がすぐに出てきた。

ヨハネ福音書19:34

 水がこぼれた、とあるので間違いないでしょう。細かいことはわからないのですが、ここでラスコーリニコフがキリストになぞらえられているのは、とりあえず確かだと思います。

 ここでナスタ―シヤを呼ぶときに、「ナスタ―シュシカ」と、愛称ではなく正式な呼び方をしているのも気になります。象徴的なシーンなので、日常感を出さないためにこうしたのでしょうか。

 次のシーンではラズミーヒンが部屋に訪れて来ます。


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