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オルテガ『大衆の反逆』⑥ 第5章 一つの統計的事実

シリーズ↓

 今回から今まで以上に雑に書いていくことにした。(笑)
とくに強調しているところ以外は、「~とオルテガは言っている」という風にとらえてもらいたい。


第5章 一つの統計的事実

 これまでの内容を軽くまとめると、私たちの時代の生は、可能性の選択肢としては非常に豊かだが、それゆえに過去の伝統・規範・理想を超え出ている。過去からの連続性が希薄になっているともいえる。

 まず根本的に生とはどのように構成されるのだろうか。

環境決断が、生を構成する二つの基本的な要素なのだ

オルテガ『大衆の反逆』岩波文庫 p.114

 

環境という諸々の可能性とは、私たちの生において与えられ課せられた部分である。それは、私たちが世界と呼んでいるものを構成している。
(中略)生きることとは、ある特定の交換不可能な世界、この私たちの現在の生の中におのれを見いだすことなのだ。

p.115

 環境と決断とは、ハイデガーでいうところの被投と企投に近いだろう。

生きるとは宿命的に自由を行使しなければならない、つまりこの世界の中で自分が「かくあらん」とする姿を決断しなければならないと自覚することに他ならない。

p.115

 ここら辺の言い方はサルトルっぽいと思う。「人間は自由の刑に処されている」というやつだ。オルテガの方が時代は先だが。

 この見解にはオルテガの貴族主義的傾向が潜んでいて、簡単に真理と認めることはできないと私は思うが(要するに〈自由意志〉はあるんか?という問題)、とはいえ一般的な考え方でもある。

 で、この生のあり方は、集団的な生にも当てはまる。まず可能性の地平があり、次いで選択がある。この選択はその社会の中で支配的なタイプの人間に由来する。私たちの時代においてはここに大衆がいる。

(※デモクラシーの時代である)普通選挙において大衆は決断を下さない。大衆の役割はあれこれの少数者の決定を支持することだった。

p.116

 かつて(デモクラシーの時代)はそうだったが、いまでは大衆がそれ以上に前面に出てきているという。これは本当だろうか。

 日本においては、大正デモクラシーの時代が、その名の通りこの引用の時代にあたるだろう。このとき民主主義は(制度的に)まだ始まったばかりであり、実質的には一部のエリートが政治を行っていたと考えられる。

 では今はどうかというと、これは難しいところだろう。日本では民主主義の理念が浸透していないために(と雑に言ってしまうが)、少数者の(つまり自民党の)決定を後追いで支持しているようにも思える。しかしその一方で、やはり大衆が社会を動かしているという風にも言えて、これは微妙なところだ。

 そのうえで次の引用は、今の日本の政治を簡潔に言い当てているようにも思える。

それにもかかわらず社会的権力、つまり政府は、その日暮らしをしているのだ。将来像を率直に描くこともしないし、未来を明確に告知するのでもなく、これからどう発展し進展してゆくかを想像できるような何かの始まりを告げるものでもない。

p.117

 理想なし、計画性なし、希望なし。今だけ金だけ自分だけ。ってコト!?(ちいかわ)

 実際、たとえば環境問題や少子化などを考えてみても、どう考えてもこのままだと数十年後にはやっばいことになるのに、状況は悪化の一途をたどっている。とくに環境問題は、やろうと思えば(理論的には)改善できるにもかかわらず、資本主義の論理などによって、結局は負債を未来に放り投げている印象がある。これも(私も含めて)大衆が社会のなかで権力を握っているからなのだろうか。
(少子化については大衆論とはまた少し区別する必要がある気がする)


 ヨーロッパの人口は、6世紀から1800年までの長きにわたって1億8千万以上になったことはなかったが、その後1914年までの1世紀の間になんと4億6千万にまで増大した。近代になって、急激に人口が増大したのだ。これが生の増加を生み出した。(これが章のタイトルの「統計的事実」だ)

 20世紀初頭までに得られた実験結果とは、「人間という種を、自由主義的デモクラシー技術という二つの原理による操作に委ねると、わずか1世紀の間にヨーロッパ人が3倍になる」というものだった。この二つは近代の最も根本的な性質だと思われる。

 オルテガはこう続ける

前世紀の中にどこか法外なもの、どこか比較を絶するものがあることが明らかだとしても、それ以上に明らかなのは、生が拠り所にしている原理そのものを一触即発の危機に陥れる人間たち――反抗的な、大衆化した人間――がいて、そういった血統を産み出していることからして、いくつか根本的な欠陥と構造的不備を抱えていたはずであるということだ
もしそうしたタイプの人間がヨーロッパを相変わらず支配し、絶対的な決定権を行使し続けているとするなら、私たちの大陸が野蛮な時代に逆戻りするのに三十年とはかからないだろう。

p.122

 だから、「最大の善と最大の悪の可能性そのものを孕んだこの大衆化した人間を、根底から理解する必要があるのだ」とオルテガはいう。

 20世紀を経たあとの我々からみると、この文章は不気味な説得力をもっていると言わざるをえないだろう。

 「生が拠り所にしている原理」とは、先に述べられていた”可能性の選択”とか、”自分に固有の義務を課すこと”などのことを指しているのだろうか。「血統」とか、生理的な表現の仕方に若干の危険性を感じるが、まぁ言いたいことは伝わってくる。

 

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