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たそがれ時にたゆたう

 夏の香りがまだ残る季節。
 見上げると、かすかに黄色く色づいた細い雲がたなびくように広がって、空を複雑で繊細な色合いに染め上げている。

 今夜は、カツオのたたきと美味しい日本酒でも買って、ゆっくりひとり酒を楽しむもう。そんな思いで、家を出て買い出しに向かう途中だった。
 池の周りでは、何人かの人とすれ違う。散歩をする人、ジョギングをする人など様々だ。

 テラスのようになったカフェの席では、2人の女性が談笑しながら池の方を眺めている。彼女たちを見ながら、
 
 いいな・・・

 とぼくは思う。

 いつかぼくも、あの席で池の景色を眺めながら、季節の流れを感じるようにコーヒーをゆっくり飲みたいものだな、と思っているのだが、いまだそれを実行に移すことはできていない。

 けど結局のところ、その機会はこの先一生訪れることはないのかもしれないな・・・

 と、そこを通るたびに、「思う」というほどでもないのだけれど、まるで遠くでかすかに鈴がなるのを感じるみたいに、そんな諦めのようなものが脳のどこかをかすめるのだ。

 

 池の周りから大通りに出たところで信号待ちをする。車はそれほど多くは走っていない通りではあったが、そのために割りとスピードを出して通る車も多い。道の向こう側にある線路の上を、長い列車の車両が黄昏を運びながらゴトゴトと通り過ぎていくのが見えた。
 すると、

 「でんしゃ!」

 と叫びながら、5歳くらいの小さな男の子がぼくの後ろから駆け出してきたのだ。振り向くと、男の子は向こう側に走る電車を指さしながら、でんしゃ、でんしゃと息を弾ませて走ってくる。そして、勢いをそのままにぼくの横を過ぎて大通りに走り出そうになった。

 あぶない!

 ぼくはとっさに男の子の小さな体に腕を回し、彼の突進を止めることができた。
 「飛び出したらあぶないで」
 男の子は、何が起こったのかわからない様子で大きな目を見開いてぼくを見ていた。すると、後ろから、子どもの名前を呼ぶ声がした。
 「ほら、勝手に走っていったらあかんやろ!」
 と母親らしき女性がゆっくりと歩いてきたかと思うと、まるでぼくの腕から彼をひったくるようにして去っていったのだ。彼女はぼくに対してなにか言うことはおろか、ぼくのことを見ることもさえしなかった。
 まるで自分の存在が、誰にも見えない透明人間になったかのような気持ちになった。ぼくは立ち上がり、あるき去っていく彼女たちの姿を呆然と見送るしかなかった。

 子どものころによく思ったものだ。今生きているこの世界は、実は自分が夢で見ているだけの想像上の世界であって、目覚めたときになって初めて本当の世界に出会うことができるのだと。
 この世界で出会う人たちは、自分以外はすべて幻なのだ。すべては実体のない幻影にすぎないのだ。

 なんだか、カツオのたたきも日本酒も、ぼくの中で一気に魅力が失せてしまい、ぼくは信号を渡ることなく家に引き返すことにした。少し涼しくなってきた風が、ぼくの体のなかをすーすーと吹き抜けていくのを感じる。
 時間とともに、池の周りの景色は表情を変え、空を見上げると、雲が先程よりも更に細くなり、空全体が朱みをもった色彩に染まりだしていた。

 知らぬ間に、日が短くなってきている。
 一体今は何時なのだろうか、とぼくは腕時計に目をやった。
 とその時、顔の前に持ってきた腕の上に、まるでその一瞬をとらえたかのように一匹の大きな昆虫が止まったので、ぼくはびっくりしてとっさに腕を振り、その昆虫を振り落としたのだった。

 昆虫は、ブーンと大きな羽音を立てて、またどこか遠くへと飛び去って行った。不思議なんだけれど、昆虫が腕に止まったときにふと、世界を、そして自分の存在を実感することができたような、そんな気がしたのだった。




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