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ひらくことで失われるものがあるとしたら

ひらくことで、失われるものがある、かもしれない。

「読みやすくするために、ひらく」。文章を書くときの基本である。この場合のひらくとは、特定の漢字をひらがなにすることを指す。

即ち → すなわち
時々 → ときどき
沢山 → たくさん
~に於いて、 → ~において、

(今、思いついたあれこれ)

「ひらく」べきとされる語句はほかにも数多くある。また、媒体によって「これはひらいて!」と指示される場合もある。もちろん、ライターとしてはこのあたりを押さえたうえで執筆する。

ただ、わたしは仕事を離れたとき、「とじた」表記も受けとめる読み手でいたいと思っている。

陰気でうっとうしいさまを「陰鬱いんうつ」と表現する。どこから見ても「読みにくい」単語だ。「いんうつ」「陰うつ」と表記されるかもしれないし、そもそもほかの単語へと置き換えられるかもしれない。読みやすさを重視するなら当たり前の工夫だ。

でも、わたしはできれば「陰鬱」のままで読みたいなあ、と思っている。ルビありでもいい。「陰うつ」というひらがな混じりのひとかたまりして認識していたら、わたしにとっていつか「鬱」の字は「なかったこと」になってしまうのではないかとおそれるからだ。

そうしていつのまにか、「鬱」の字はわたしの手の届かない存在になってしまうのではないかと思ってしまう。

すでに手が届かなくなった字や表記はたくさんある。「あっ、これどう読むんだったかな」と、たまに焦る。

字はおもしろい。ひらがなで書けるものであっても、漢字表記にすることで印象もかわる。だから、できるだけ多くの字がわたしの頭に留まっていてほしい。ある種の漢字や表記が手もとを去っていくなんて、あまりにも惜しい。

貧乏性だからかなあ、と苦笑いしながらも、読み手としてのわたしについて考える。

誰かが懸命に書いた文章が、かならずしもセオリーどおりの読みやすさに満ちているとは限らない。そんなとき、読み解くわたしも真剣でありたいと思う。

「どういう意図で、どんな気持ちでこの字を使ったのかな」と思いを馳せる瞬間も、わたしにとってはまた幸せだ。そして、考えているあいだは少なくともその字はわたしの手もとにある。

ひらくことで幸せが一つ失われたらどうしよう。こうやって、わたしは毎日いらんことばっかり考えている。

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