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自己否定についての考察(Ⅱ)——自己否定フィルターの作用

 以下の記事の続きです。


 3.自己否定フィルターの作用

 自己否定フィルターの作用について、もう少し詳しく考えてみる。

 ⑴.すべてを自己否定的に解釈することの恐ろしさ

 2⑴で、自己否定者はすべての出来事を自己否定的に解釈すると述べた。言葉で表すことは簡単であるが、実際このような思考回路は想像を絶するほどに恐ろしい。

 我々が直面している最も基本的な現実は、我々自身が存在しているという事実である。しかし、自己否定フィルターを通してこの現実を見れば、「本来存在してはならないはずの自分という人間が存在してしまっている」ということになる。このような思考を基礎に据えれば、自分が経験することはすべて、本来ならば禁止されなければならないことのように映ってしまう。

 誰かを好きになることも、自然な喜怒哀楽の感情を抱くことも、どんなこともその人にとってはすべて罪になる。その中で生きていれば、自分のために何をしたところで罪悪感しか感じない。それでは「生きることが辛い」「生きることが苦しい」という状態になるのも当然である。心が死んでいく一方であるのも不思議ではない。

 ⑵.強迫的な努力と休むことに対する罪悪感

 先に、自己肯定的努力と自己否定的努力について書いた(→2⑵)。自己肯定的努力は、学校の休み時間にセーフティマットで囲まれた平均台を渡ろうとするようなものである。これに対して、自己否定的努力は、海で人喰い鮫から逃げるようなものである。前者は自分の意思で困難を選択しているのに対して、後者には「やるかやらないか」という選択の余地がない。つまり、自己肯定的努力は自発的な努力であるが、自己否定的努力は強迫的な努力である

 強迫的な努力においては、休むことは許されない。一時の停滞すらも命取りになるように感じてしまうからである。したがって、自己否定者は休むことに罪悪感を覚える。「この程度で休んではいけない」「自分が休んでいる間にも、他の人たちは前に進み続けている」「自分は元から他人よりも遅れているのだから、その分多く努力しなければならない」などと思って、努力を止めようとしない。無理やりにでも休もうとして、ゲームをしたりテレビを見たりしても、罪悪感が常に付きまとっているから心が休まらない。そうやって、どんどんエネルギーを消費していく。しかしその一方で、そもそも人間の持つエネルギーなど高が知れている。だから、いつかそのエネルギーが枯渇したときには、すでに心身ともにボロボロになって立ち上がれなくなっている。それが、うつ病などの深刻な精神的病である。

 中には、強迫的な努力すらままならない人もいる。失敗すれば死ぬという恐怖があまりにも大きすぎるために、不安感情に拘束されて身動きが取れなくなるからである。その結果として起こるのが、「やらないといけないことはわかっているのに体が動かない」「やろうとする気持ちはあるのに体を動かす気にならない」といった状態である。やらなければならないことを始めることができても、不安感に襲われて、すぐに中断してしまう。少しでもその物事について「できない自分」「わからない自分」を感じれば、それが直ちに死の恐怖を連想させるからである。そうやって始動と撤退を繰り返してばかりで結局何も進められていないから、「今日もできなかった……」という罪悪感でさらなる自己嫌悪に陥る。まさに負のスパイラルである。

 ⑶.対人関係における視野狭窄

 自己否定フィルターを通すと、人間関係も地獄になる。まず、友人や恋人などできないと思い込む。なぜなら、自分を好きになってくれる人など一人もいないと思っているからである。だから基本的に、自分から声をかけに行くなどということはしない。だが、自己否定者でも友人はできるし、恋人ができることもある。それは、筆者に現に友人がいて、交際経験もあるということが示している。とはいえ、友人や恋人ができても地獄は続くのである。

 最も苦しいのは、友人や恋人が自分に向けてくれる好意や愛情を心から信用することができないことである。自己否定は、他者からの好意や愛情を感じ取るセンサーを破滅させるからである。彼らはたしかに自分に好意を向けてくれているし、愛情も持ってくれている。しかし、それに確信を持てないから、自分が愛される存在であるとは思えない。だから、自分を愛することができないし、彼らを愛することもできない。いつになっても心がつながっている感じがせず、孤独感が消えない。これに加えて、自分の友人や恋人でいてくれる人などこの先一人も現れないと思っている。その結果、態度にはなるべく出さないようにしていても、心の中では彼らにひどく依存し、執着している。

 友人や恋人と何かトラブルがあったわけではないにもかかわらず、彼らが少しでも不機嫌でいるだけで、それを自分に向けられたものだと錯覚してしまう。LINEなどで連絡が来ないと、すぐに「嫌われたのではないか」と思ってしまう。彼らにも彼らの生活があって、忙しくしているという思考にまで至る余裕はない。嫌われていないうちからこのような不安感に席巻されているのだから、友人や恋人と一度でも衝突を起こせば、それがたとえ些細な衝突であっても二度と関係の復帰を望めないと思ってしまう。だから、友人や恋人の前でさえ、変な緊張感を拭えないのである。

 また、友人にも自分以外に友人はいるし、恋人にも自分以外の異性の友人はいる。そんなことは頭でわかっていながら、いざ彼らが自分以外の友人と楽しそうに交流している場面を見ると、「きっと自分よりもその人たちと一緒にいるときの方が何倍も楽しいに決まっている」という思考になって、心が苦しくなる。恋人の場合には激しい嫉妬に駆られる。深刻な劣等感から来る無条件降伏的な思考である。このように、現象を挙げれば枚挙に遑がない。

 ⑷.一人の過ごし方もわからない

 だからといって、人と関わらなければ救われるのかというと、そういうわけでもない。一人でいたとしても、孤独には耐えられないからである。寂しい気持ちはあるのに、「寂しいから話に付き合ってくれない?」と頼むことは誰にもしない。そんなことをするのは相手に迷惑だと決めつけているからである。

 1人で出来る対処法として、例えば明るい歌や愛の歌を聴こうとする。人の声が恋しいからである。しかし、そういう歌を聞いて心が安らいだり、元気が出るということはない。どんな応援ソングを聞いても、どんなラブソングを聞いても、応援されている「みんな」や愛情を注がれている「あなた」の側に、自分がいないからである。自分がいるのは、決まって、応援したり愛情を注いだりする側の「私」や「僕」の方である。そして、それは、自分自身で無意識のうちにそう仕向けている。つまり、一言で言えば聴き方が分からないのである。ただ、聞くことに集中しているから、その間は孤独を忘れられる。しかし、中断すれば再び孤独がやって来るから、すぐにまた再開してしまう。だから、いつまで経っても抜け出せない(もちろん、これは音楽を聴くことに限らない)。


→「自己否定についての考察(Ⅲ)——自己否定フィルターの形成」
に続く。

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