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「馬と自然 、事に仕えること」

雨がしとしとと降る、6月、新緑の遠野。少し湿った空気の中に立ちあがる土や緑の香りがからだを包みこんでくれる。四季折々どの季節も、ここに来ると自然と感覚がひらいていく。

新たなプログラム開発の着想を得るため、遠野クイーンズメドウ(QM)の馬と共にある日常に入り、この季節の馬事や畑仕事を行ってきた。やってきたことはシンプル。

「山の中に放している馬たちに、刈った青草をやる。」
「からだをブラッシングし、蹄につまった泥をかき出す。(これも馬との日々の大切なコミュニケーションの一つだそう。)」
「この時期に荒川高原に預けている馬たちの様子を見に行く。」
「馬たちにホルターを付けてリーディングする。」
「高原から戻り、畑に大根を植える。ねぎ坊主を取る。」
「休憩してみんなでおしゃべりしたあと、牧草地に行って翌日の馬たちにやる青草を刈る。」
「みんなで晩ごはんをつくって食べる。」
「おしゃべりする。」

草を食む牡馬
荒川高原の馬たち

日々馬や畑、自然とともに暮らす人たちと一緒にからだを動かし、おしゃべりする時間の中で、いろんな気づきやメッセージを受け取って、自分の中の扉をこんこんとノックされた感じだった。

(ここはいつでも、そんな場所。)

「公共性(社会性)・地域性・日常性について」
「人と自然との距離感について」
「コミュニケーションすることについて」
「知れば知るほど分からなくなる世界観について」等

色んなことを考えるきっかけになった時間だったけど、その中で考えたことを一つだけ言葉にしてみる。

【仕事、事に仕えること】

「ぼくは馬がいなければやらないことばかりやっているんです。自分で何かしているというより、馬に動かされているというか…。」

ある人の言葉

遠野は国内有数の馬産地として知られていて、遠野において、馬は古くから暮らしを共にしている貴重な存在である。

「馬と共にある暮らし」とは、きれいな響きだ。だけどその日常は、たくさんのやることで溢れている。QMのように、馬房の中ではなく山の中で暮らす馬たちと共に暮らす日々の大変さは尚更だろう。ほんの少し馬事をしただけで、あっという間に時間が経っていた。

馬がいなければやらなくていいこと。けれど、馬に動かされている感覚の中で、それをやり続ける日常を生きる人の言葉は力強い。「馬に仕えて生きる」という清々しさ、潔さを感じた。

「仕事」について考えてみる。

仕事という字は、「事に仕える」と書く。シンプルにそのまま受け取ると、本来的に仕事とは、何かの”事”に仕えることで成り立つものなのかもしれない。何かのため、誰かのためにやっている、場合によっては「しょうがない」からやっているという、ある種の境地でこそ”仕事”が成り立つ。

今の社会はどうか。仕事は自分でつくるとか、自分で決めることが大切とされがちだ。自己決定して、自分で自分の生き方を決めること。たしかにその自由さや選択肢があることは大切だと思う。自分にもそれを大切に思う価値観が備わっている。

だけど、自分でつくっている世界は案外すぐ飽きてしまう。よほどの”好き”にのめり込むことがない限り、自分で閉じた世界は、最初は楽しいけれど、どんどんその感覚が薄れていく。少なくともぼくはそうなりがちだ。自分がバイタリティに溢れ、忙しくても持続的に楽しめていた経験を思い返すと、自分が好きで探究したいことか、誰かのために仕事していた時だったように思う。

自分が(ひとりで)「つくる」という意識から、何者かによって(何者かとともに)「つくられていく」という日々の中ではたらく、生きることが、仕事をするという本質なのかもしれないと思った。そこには、押しつけがましさのない美しさと強さがある。

「作は無慾である。仕えるためであって名を成すためではない。丁度労働者が彼らの作る美しき道路に名を記さないのと同じである。…慾なきこの心が如何に器の美を浄めているであろう。」

柳宗悦(1984), 『民藝四十年』, 岩波文庫, p86』

今回、久しぶりに会った友人が、まだよちよち歩きの赤ちゃんと一緒に遊びに来ていた。2人の姿を見て、赤ちゃんもそうだと思った。赤ちゃんが育つそばでいるということは、”自”から離れて、赤ちゃんを中心に動きがつくられる。赤ちゃんに、動かされている。損得勘定ではなく、無条件に関わったりコミュニケーションする姿は、馬との間でつくられる世界と同じような力強さを感じた。

あるがままのいのちといのちの関わり。

仕える先の"事"の純度も大切な気がした。その純度が低い、すなわち何か作為があることや損得勘定の強い”事”の中で仕えると、満たされることなく、徐々に疲労感だけがからだに残る。

自分の源泉(本来の自己)から直観、直感して何に仕えるかを見極めること、その感受性を持って世界と接し何に仕えるかを迎え入れることが大切なのだと感じた。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子(2014), 『谷川俊太郎選 茨木のり子詩集』, 岩波文庫, p171-172』

自分がどうこうではない世界。
自分を超えて、何かに仕えている。
そういう在り方から、学ぶことがたくさんあった。

その夜、みんなで食卓を囲んでいる時にある人が言った「人間ひとりでは何もできないですから」という言葉が胸に響いた。

日々の自分と照らし合わせて、揺らぎながら考える。日常を超えたところでホンモノに触れ、応答するからだとそこに生まれる気づきや学びが、ここにはある。

そして、こういう体験を与えてくれる場所が日本にはたくさんある。

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