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「夏の日の心象スケッチ 京都京北」 

京都京北での3日間を綴る

数年来、その人の「在り方」や「生きる」をテーマに、「体験・体感⇔対話⇔内省」をベースにした場をひらいてきた。
最近では越境学習とか、リトリートとか色んな言葉で表現され、徐々に”市民権”を得てきたような感じもあるけど、なんというか、ぼくがこれだと思っている場は言葉で説明しづらいところがある。

一定のラインまでは、理論やこれまでの実践知を通して説明できるのだけど、言葉はすべてを捉えきれないものだから、すべては伝わらない。

ぼくは、五感や感性、身体性、その場の全体性、目に見えないもの(関係・間等)から何かが生まれる瞬間などを大切にしている。その分、更に説明の難易度が増す感覚がある。
下手に伝えて伝わりきらないようであれば、いっそのこと言葉で伝えることをしないと決め込んでいた。けれど、それはそれでどこか寂しさと感じることもあって、悶々としていた。

最近色んな人に会って、悶々としていたところから抜け出してこれた。
今改めて腹が据わってきたような感じがしていて、自分がやることが明確になってきた感じがある。そんな中、7月末に、京都京北で2泊3日の場をひらいてきた。

久しぶりに、自由な感覚の場だった。

予定不調和だからこそ、目の前に向き合う。自分として対象・事象と向き合うからこそ自然とからだに残る体験と記憶。
誰に何を言われるまでもなく、その場にいたそれぞれが、それぞれのアンテナ(自分への問い)を基に体験を自分ごとに置き換えながら進んでいき、じわじわと意識が変わっていくような感覚。

この場を言葉にしてみたいと思って、どう表現するかを考えた結果、「心象スケッチ」として、ただ起こったことやその時感じたことを書き連ねてみようと思った。

つらつら書いたので1日が長いのだけど、DAY1~DAY3までを自分への備忘録としても残しておきたいと思う。

【DAY1】ママチャリと、予定不調和な警官と鶏

【DAY2】食べること、昨晩のお金と揺らぎの話

【DAY3】のびやかに、すこやかに

「風景」

雲はたよりないカルボン酸
さくらは咲いて日にひかり
また風が来てくさを吹けば
截たれたたらの木もふるふ
さつきはすなつちに厩肥をまぶし
(いま青ガラスの模型の底になつてゐる)
ひばりのダムダム弾がいきなりそらに飛びだせば
風は青い喪神をふき
黄金の草 ゆするゆする
雲はたよりないカルボン酸
さくらが日に光るのはゐなか風だ

宮沢賢治(2016), 『春と修羅』, ゴマブックス



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