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Twitterで「チェックされている」は「拡散されている」でも「浸透している」でもなく、ファンこそが情報を拡散・浸透させてくれるという話。

先日、Twitterで舞台公演に関する話をしていた時に気付いたことを書きとめておきます。自分のツイートに対して頻繁に通知を受け取る中で危うく勘違いしそうになったこと。 舞台の作り手側にとって大切な話。うっかり勘違いしようものなら機会損失に繋がる可能性がある話。集客に繋がる(かもしれない)話。

Twitterのリアクション、きほんの話。

舞台関係でのツイートの内容について。たとえば公演情報や活動報告、お稽古実況、こぼれ話に思い出話。公演についてのツイートを投稿したらリツイートやいいねの通知が続々届く。インプレッションの数字もどんどん増えてゆく。ああ、こんなにも大勢の人が注目してくれているのだ!私のツイートが多くの人の目に触れているのだ!

……うん、それ、勘違い……。

たしかに、「チェックはされている」のです、それは間違いがない。だけどそれ、「単にチェックされているだけ」だから。インプレッションに至っては「表示されているだけ」という。関係者が多ければ多いほど、また、リツイートやいいねをした関係者にフォロワーが多ければ多いほど、それだけ数字が跳ねるという単純な話。情報の拡散、浸透には直結しません。(ただし、Twitterにブックマーク機能がある点はお含みおきください。)

数字を読むということ。

ある程度きちんと反応を読みたいと思ったならば、エンゲージメント総数から内訳、数字を読み解かなくてはいけません。簡易的ではあるものの、これは最低限の話。最低限の話だけれど、これをやっている作り手はどれだけいるのだろう。演劇業界、それをやっている団体・企画はたぶんきっと、うんと少ない。

もっとも、アタリ程度の捉え方であれ「数字を読んでいる」人たちは、多くの場合、わざわざそれを情報として外に出すことは無いだろうと思います。だって、出し抜いたり差別化するヒントだったりチャンスだもんね。(だからこそ、私はそういう話をしようとnoteに登録したわけです。)で、「わーい!わーい!評判イイ!嬉しい!ほらほら、見て見て!」って喜んでいる人たちは、単純に「広がっているような気がする」という状況で満足してしまっている場合が多いということ。最終的に集客に結びつかなくても不思議がない状態。作り手だけが盛り上がっていると言われても仕方がない状態。
勿論、特別な働きかけをしなくてもファンを多く抱え、注目されているような団体や俳優だって、極めて少数はいると思います。しかし実際、多くの場合は、どんなに素晴らしい発想だって、抜群に面白い企画だって、圧倒的に芝居がうまい俳優だって、コンテンツ自体や俳優自身に華があったって、情報の拡散に苦戦したり、集客に苦戦したり、黒字なれどなんだかスッキリしなかったり……。

そこで現れる救世主、それがファン。

これは自身がファン体質なので尚更に思うところなのですが、ファンとは奇妙なもので、公演が話題になり贔屓の役者が注目されて……という状況になれば、「手が届かないところへ行ってしまう」という類いの寂しさを抱える反面、推しや団体が認められ世間様に受け入れられたこと自体は嬉しかったりするわけです。つまり、好きな役者や団体の良さがなかなか認知されないというのはファンにとっては悔しいことでして。ね、ファン、奇妙と言うか、奇特と言うか。なぜファンが救世主になり得るだなんて言うのか、それは追って書き記すこととします。

誰だって、目的以外にはさして興味がない。

全員が全員ではないとは思うんです、そうは思うんですけど。自身が作り手として活動している人は特に、友人知人が出演・参加している舞台を観に行ったとして、目当て以外の役者・スタッフの話にまで話を広げる機会は少ないのでは?(これは私自身の交友関係における感覚なので、別のコミュニティではそうでもない可能性もあります)。本来、ネットワークやフィールド、もっとも世界を広げられるはずの人たちが全然手を繋がない不思議。業界全体を俯瞰で見ることにあまり興味がないのか、自分が一番なのか、ただの義務感や付き合いで行っているのか、それは人それぞれでしょうけど。横の繋がりが大切だという割に無関心だったり拒絶したりぶった切ったりしていませんか。気のせい??

そんな中で、結果的にもっとも話を広げ、広めてくれるのがファン体質のお客様だと考えています。Twitterの投稿で見かけたことありませんか?「この公演面白かった!」「推しの芝居がよかった!」「推しとは別に、素晴らしい俳優を見つけた!」「上演時間はこのくらいだったよ!」「これから行く人は○○した方が楽しめるよ!」「もう一度観たい!」「他の回も観てみたい!」という感じのツイートを。こういう発信が出来るのはファンならではだと思います。作り手ではない人間の心が動いたことで発せられる言葉の説得力。それを目にした側は購買意欲を刺激されたり、迷っていた背中を押されたり、明日も頑張ろうと思えたり。これが「ファンが救世主になり得る」に至った理由です。あくまで私の肌感覚ではありますが。

作り手は客観視出来るよう訓練、話はそれからだ。

難しい。作り手でもある、受け手でもある。しかし受け手であることの方が多い私は思います。舞台は作り手のものだと。言い切れます。受け手にどれだけ愛があったって、舞台は作り手のものです。そんなのはわかりきったこと。それは作り手側も分かっているでしょう?その上で受け手はそのカンパニーや公演を愛します。(ただ、中にはそれが出来なくてストーカー的な愛になってしまう方がいらっしゃるのも事実ですが……それはまた別の話。)だからこそ、作り手は受け手の存在を真剣に考える義務があると言っても過言ではない。それが出来ないうちは集客・情報の拡散も本当の評価も得難いだろうし、舞台に対しての閉じられたイメージは払拭し難いのではなかろうかと考えます。大きく展開している団体や公演・企画というのはやはりそれ相当で、受け手を巻き込み、一つのムーブメントにまで持っていっているということなのだと思います。商業小劇場問わず。

なぜこの記事を書いたか。

先日拝見して「これは素晴らしい!!」と思った企画。衝撃を受け、とてつもなく感動した反面、非常に閉じた空気を感じました。悲しかった。好きで、積極的に観に行ったけれど、とても気に入ったけれど、個人的には疎外感が半端なかった。「確かにこれは一大ムーブメントに値するわ!」って興奮しながら「観客の、この外野感……」と、とても寂しかった。心底悔しかった。こんなに素晴らしいものを作っているのに、なんで宣伝しないの?拡散するように手を打たないの?って。外側から見て、あーだこーだと世話焼いて、作り手と受け手を結びつける役割の人がいなかったのかもしれない。あるいは、いたものの充分に飛び回れなかったのかもしれない。いずれにせよ、これから更に大きく展開してゆこうとしているプロジェクトだから本当に心配しちゃった。財布の紐が堅くて大したお金も落とさない客の、余計なお世話っていうやつなんだけど。(※ただし、これと思えばお金も時間も惜しみなく費やすタイプ。)これからもばっちり続いてゆく企画なので、次回以降そういう部分がフォローされて、純粋にファンが増えたらいいなって、思わずにはいられないし、どうしたって期待しちゃいます。

そしてまた、宣伝美術として舞台に携わる、決意表明みたいなものでもあり。自分が愛している俳優やプロジェクト・作品、自分が携わるものについては、作り手を促し、繋ぐ者として作り手・受け手としっかり向き合い、気を配り、愛して、ひとつでも多くを結び付けられるようにと。また、「演劇という世界」のファンとして、今の自分には何が出来るか、これから何をしていったら理想に近づけるか、を日々考えること。

なぜそんなことを考えるのか。

至ってシンプル。楽しいことや嬉しいことは、一人でも多くのひとと共有したいじゃない?ただ、それだけのこと。

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