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過ぎゆく時と永遠

急性胆嚢炎で緊急入院してから、1ヶ月ほど経ちました。退院後も時折出ていた微熱もほとんど無くなり、手術跡もほとんど痛まなくなりました。

仕事も、入院前とほぼ同じようにこなしていて、先月末のプロジェクトの中間報告前は、普通に午前4時まで夜通し作業していたりしました。

私の体にメスが入れられ、胆嚢という臓器が一つ失われたことで、何かが変わった、ということはあまりないように感じていました。事実食事も普通に摂れますし、先日少しだけハイボールを自分で作って飲んでみたところ、病気の前よりも酒に弱くなったりも強くなったりもしませんでした。

しかし、明らかに一つ、意識が変わったことはあります。それは、「今を生きる」という意識が、一段と強くなったことです。もっと具体的に言うと、過ぎゆく時間への感覚がずっと鋭くなった気がします。

先日仕事において、とあるイベント向けに、資料を急いで作ってくれないかという依頼がイベント主催の部署からあったので、プロジェクトの合間と夜寝る前の時間で作ったところ、その部署から、取り決めたフォーマットに合ってないので、作り直してくれないかという依頼がありました。

取り決めたフォーマットなんて、私は聞いていませんでした。明らかに事前の伝達ミスです。そのことを伝えると担当者は平謝りでした(あくまでやりとりしていたチャット上の話ですが)。

以前の私なら、まあ人間ミスがあるのは仕方がないと、穏便に済ませていたと思います。しかし、今回はどうしてもすぐに許すことができず、非常に不機嫌な気持ちのまま、チャットにもぞんざいに返答し、急いで資料を修正して、担当者に送付しました。いろいろお礼やらフォローやらのチャットが来ましたが、ぶっきらぼうにしか返答しませんでした。

時間を浪費したことに対して、こんなに苛立っている自分に、少し驚いていました。

家庭でも同様で、以前よりもかなりはっきりと、今日は休みの日だけど仕事だから邪魔をするな、と伝えることが増えたような気がします。以前は妻が不機嫌になるのが怖くて言い出せないのが普通でした。

理由について考えていたところ、やはり一度死の淵に立ったことが、かなり深層心理に影響を与えているのでは、と思い至るようになりました。

入院生活が終わって病院から出てきた時、大きな木に茂る緑の葉が、夏の熱気の中で風に吹かれて揺れているのを見て、私は何か、永遠の生命の力とでもいうような、大仰なまでの感銘を受けたのでした。

同じような気持ちを、私が尊崇する作家の辻邦生がエッセイに書いていたことを思い出しました。

 その春に急性肝炎で生まれてはじめて一ヶ月に及ぶ入院生活をした。健康に恵まれた私には、あとにも先にも、珍しい事件だった。この病気は、私の、生を拡大してゆく方向に、深刻な反省を強いた。生に対する死の存在が、私の思考に大きくかげを落とした。死は戦争中、おびただしく私の身のまわりに見られた。死の日常化は、かえって死の持つ深刻な意味を隠していた。それがあらためて私の前に立ちはだかった。
 私は病院を退院した日の、初夏の樟の木の輝きほど美しいものを見たことがなかった。
 それは少年期の夏休みに見た海の上の雲や、信州の高原の白樺や霧と同じ質のものだった。
 <永遠の夏休み>とは、死を通過してきた生と無縁ではないーー私は初夏の木々のみどりを見て、そう思った。

辻邦生『自伝抄ーー小説まで』

もっとも、辻邦生は破天荒な文士の真似事でもしようとしたのか、浅草に通ってストリップ劇場の踊り子たちと質の悪い酒を飲みすぎた結果肝炎になったのであって、私は品行方正・質実剛健な暮らし振りなのになぜか胆嚢炎になったという大きな違いはあります。

ただ、死を通過することで見る景色が大きく異なってくるという体験は同じであり、それは少年期に感じるような「永遠」と同類のものであることに、このエッセイを読み返して改めて気付かされました。

時間を浪費することに苛立つということは、せせこましく、生き急いでいるようで避けてきた面があったのですが、今はそう思えなくなってきました。人生は一度きり、ということを改めて強く思うのです。このことが本当に良いことなのかどうなのかはわかりませんが。


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