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生きている言葉、死んでいる言葉

梅雨の最中だけど、
夏日が2日も続けばもう梅雨明けしたのかと
勘違いするのもわかる。

梅雨の晴れ間といえばそうなんだけど、
この日差しは容赦ない。
買い物などクルマで出かけて、
駐車場が炎天下だと
ほんの小一時間でも
クルマの中はめっぽう暑くなっている。

よくちいさい子どもを車中に残し、
遊びに行く親が毎年のように問題になるが、
大人でも耐えられない暑さの中で
泣くことしかできない子どもの苦しみや
いかほどか。
ちょっとの想像力もあれば
容易にわかりそうなものだけど。

大人になるにつけ、本来なら危機意識と
それに伴う想像力は高まるものだ。
だけども、それさえ失くしていく大人の
多いことよ。嘆かわしい。

よく政治家や官僚が使う便利な言葉に、
「想定外」がある。
しかしこの言葉、1度は効き目があるが、
2度目からはなくなるはずなのだ。
なぜかといえば、想定外の事象が起きれば
それに対して分析や検証して
同類の想定外が起きないようにするのが
科学的判断というもの。

それがコロナ禍において、何度も想定外が起き、
それを理由に対策に右往左往するのは、
最初の想定外のことが起きたとき、
それに対して政府は何もしておりませんでした、
と告白しているようなものである。
それを国民に見透かされているのに、
どうしてああも大変な事態が起きていますと
他人事のように言えるのか不思議で仕方がない。

言葉とは正直なものである。
その人の思慮の深さや性格までも表してしまう。
もっといえば、思想的なものさえ浮き彫りにする。
私など子どもの頃から、学校の先生や親から
よく指摘を受けたものだ。
これは単にボキャブラリーの問題ではない。
その人が身につけている生きた言葉の問題だと思う。

生きた言葉は成長する。
その成長を促すのも止めるのも
その人自身であること忘れないようにしたい。


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